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48夜 にせちち


十年以上ぶりに会った男ともだちが、
同級生がやっている店に連れて行ってくれて飲んだ。
案内してくれたのはたまに行っていた店なので驚いた。
つまりその日は小さな同窓会、
店主が同級生だとは、それまで互いに気づかなかったというわけ。
「馬鹿でごめんねー。」と詫びたら酒が進んだ。

小さな店にはひとりで飲みに来た年上の女性もいて、
店の女の子に「それ、にせちち?」と聞いたのが妙に可笑しかった。
聞くほうも答えるほうも、大真面目でそれはそれで可笑しかったんだが、
胸を触ればわかるものなのか見ればわかるのか、
わたしはすっかり飲んでいたので、そこが最後までわからなかった。

したたか飲んで、今読んでいる漫画の話をしたのが記憶にある。
今わたしは五十嵐大介の作品を読んでいる。
初めは絵が受け入れ難かったことを ブルーチーズになぞらえよう。
匂いが嫌だが味は好き、だから鼻をつまんで食えるようになる練習をした。
そうまで貪欲に食いたい物か、ブルーチーズ。
いや、ヤギのチーズだってどうしても食いたい物だった。
五十嵐作品って、わたしにとってそういう漫画だ。

官能がなくはないが器官のほうが色濃い。
浮世に暮らしても浮き草じゃない。
にせちちでも、描ききったものは本当になる、そんな感じ。

男ともだちはほどのいい馬鹿な話に花を咲かせてくれ、
五十嵐大介も知ってはおり、漫画の話なぞほんの少しだったが十分楽しんだ。
でも今度また会うときには、作品を数冊、恰幅(かっぷく)のよくなった胸に押し付けてやろう。
わたしの記憶の男ともだちは今より三分の二の骨組みだったはずだ。
・・いや、ひとのことは言えない。



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食えない漫画だけど食いごたえのある作品群の中で、特に食い物にそそられるのは「リトルフォレスト」。
作家は実際に山村に生活しながら日々の暮らしを漫画にするのだが、
最後まで主人公を架空の女性で描ききったことに拍手。
主人公が大きな口で食べるのがあんまり旨そうだったので、
描かれているレシピどおりに作ってみたものもある。

もうひとつ、作ってみたい料理のこと。
スウェーデンの伝統料理『ヤンソンの誘惑(Jansson's temptation)』が、
「女の子の食卓 6」(志村志保子)に載っている。
レシピを載せようと思ったけれど、なにしろ『誘惑』だもの、
ちょっとどきどきしながら検索してみるといい。くすくす
わたしはもうアンチョビを用意した。
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by noone-sei | 2010-03-13 03:30 | 趣味の書庫話(→タグへ)

45夜 ひとりの愉しみ


本が呼ぶってことはないか?
銀や金に光るような背表紙に目がすいっと行くんだ。
そんなふうにして本屋で手に取った本は、「取る」というよりも、「採る」か「捕る」だ。

この地では本屋らしい本屋が今はなかなか見つからない。
昔はバス停の時間つぶしに入る、小さな間口に小さく痩せた親父が店番している店があった。
不思議なことに店の床は道路から一段低く、歩く革靴と運動靴の音を聞き分けられる寄木(よせぎ)だった。

役所のすぐ近くの裏路地だったので、 
実用書から純文学から耽美なもの淫靡なものまでぎっしりと棚が埋まっていた。
いや、役所の人間が皆そうだからというわけじゃないが、頭の片隅を現実世界から
少し離していられる職種というんだろうか、世俗離れしたものをまだ読んでいられる者が多くないか?

そこは篠原勝之や丸尾末広やつげ義春を飼っているような本屋だった。
探せば、76年から十号だけ刊行されたという新書館の雑誌、
「ペーパームーン」なんかも置いてあったのかもしれない。
別冊「グレープフルーツ」にはハルノ宵子なども掲載されていたのだそうで、
その頃それらの雑誌を知っていれば、読んでみたかった気がする。

自覚的に偏愛するという志向はいつの頃にもあって、
奇妙なものに魅かれ、それがなんなのか知りたくなるのは自然なことじゃないかな。
いつしか、かたくなに興味対象を希少の文化に求める者や、
いつしか、創作者でありたいと望む者が生まれたりするんだが、
なかには市井(しせい)の趣味人のような美学者がいてもいいように思う。
創作をする者と美学をする者には隔たりがあるんじゃないだろうか。
知識に感応して深く発酵する愉しみは替えがたい。
けれども創作は架空を醇化(じゅんか)させる、得たものを切り捨てていくことだ。
感応したまま創作をすると、脂肪のついたものができあがることもある。

先日、大きな町に行った。大きな本屋には、棚のあちこちに仕掛けがある。
「○○書店」と銘打って、その町に住む数名の作家選りすぐりの本が棚に並んでいた。
おすすめ本リストという印刷物まで用意されている。
彼らを形作った一部であろう本の群の並びは愉しかった。物語作品が多くあったことも興味深かった。
作家たちの作品も並んでいて、感応と創作をどう折り合わせたかを垣間見られてこれも愉しかった。

「佐伯一麦書店」の棚から、本が呼んだ。ちかちかと光ったのは文庫本。

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    カレル・チャペック 『園芸家12カ月』 中公文庫
    ルナール 『博物誌』 新潮文庫

これを王様にあげよう。
ひとりの愉しみを満喫してもらって、あとでお裾分けにいい話をいくつか聞かせてもらおう。
本には呼ばれるのだが、当たりのそれを読むのはいつも王様で、いつもわたしではないんだ。



■書店を開いていたのはこの、仙台在住の作家たち。
皆、大きな賞をもらっているそうなんだが、いままでぜんぜん知らなかった。
    ・佐伯一麦・瀬名秀明・三浦明博・熊谷達也



■仙台市はこんなところ
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街の様子


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街路樹が並ぶ大通り


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駅の近くの裏通りにはこんな戦後の名残りの市場が。


仙台・宮城オールロケの映画を観た。映画制作や撮影に地方都市が全面的に後押しをしている。
 
    映画ゴールデンスランバー
                       せんだい・宮城フィルムコミッション協力  
                       原作:伊坂幸太郎 仙台在住
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by noone-sei | 2010-02-19 03:51 | 趣味の書庫話(→タグへ)

40夜 ひとり


 ・メンタルな話なので引き寄せられる人は読まないほうがいい


ひとりの時間が苦しい時と、ひとりの時間がなきゃいけない時ってないか?
過去の事象に囚われると身動きがとれずひとりの時間が苦しいけれど、
再生へのプログラムを発動させる糸口が見つけられるとひとりの時間が必要になる。

時間が薬というのは正しい。
けれども時間をどう使うかで薬の効き目はちがってくる。
思考を痺(しび)れさせて捨て置くこともあろうが、飾りなく思考して向き合うという方法もある。

喪失というのは、別れだ。
この「別れ」という言葉はとても大切で、「別れ」をきちんと認めて初めていろいろなものが動き出すように思う。
動物の親と子の別れ、人間の親と子の別れ、人の別れ、男女の別れ。
父との別れは、むしりとられるような別れだった。
鰐号とのへその緒を切ってやる時には、動物の本能のような感触があった。
人や男女の別れは、濃密な関係であればあるほど破綻は苦しい。
どのような「別れ」であれ、それを認めるところから「別れを弔う」ことが始まり「再生」が動き出す。
再生には、ふたたびという文字があるけれど、脳細胞が再生するようなふたたびのやり直しではない。

これまでわたしは、どこにあるのかわからない心というものの単なる器として「脳」という語句を使った。
電気的な刺激で点滅するだけの入れ物じゃないかと皮肉な使い方をしてきた。けれど、それはもうやめよう。
これまでの嘲(あざけ)るような使い方は、自分を嫌ったり大切に思えない心情の反映だったから。
脳は、思考する脳だ。

ひとりの時間、「思考」してさまざまな「別れ」をして、今「弔い」をしている。
「再生」が始まるのはこの弔いを終えてから。




今夜のお写真は書庫。同じものが二度写っているのは、ぼぉっとしているやつなので勘弁。
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夏から秋への書庫。
「天顕祭」(白井弓子)は重厚だった。「苺田さんの話」(小沢真理)は面白かった。
「越後屋小判」(奈知未佐子)は切ない話。遠藤淑子には男女ペアの話をもっと描いてもらいたい。


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秋から冬への書庫。
荒木飛呂彦は懐かしかった。「乙嫁語り」(森 薫)は描き込みが楽しい。
「魔女」(五十嵐大介)は深い。「ひみつの階段」(紺野キタ)は丁寧な気持ちで読んだ。
・・と、いままでになく感想も書いてみた。

ところで知ったこと。
花郁悠紀子と波津彬子は姉妹、森薫と荒川弘は女性作家。
「鋼の錬金術師」も「D.Gray-man」も「家庭教師ヒットマンREBORN!」も女性作家のだったとは。びっくりだ。


追って:
いつもここに積むのは漫画であって本ではありません・・ 本はほとんど読まないのです・・

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by noone-sei | 2010-01-17 03:10

14夜 献身


死んでも生きている 死んでも死んでも終わりがない世界
という文を友人のところで読んでどきりとした。

昔、好きでときどき通っていた銭湯に、どきりとするポスターが貼ってあり、
それを見るたびになんともいえない気持ちになった。
「リボンのない贈り物、献体」
相撲取りの全身が載っていた。
周囲に、献体の意思表示と手続きをしている人は幾人かおり、実際に舅をそのように見送った人もおり、
友人の医者から医学生時代の実習や都市伝説を聞いたこともあった。

以前「カテゴリ~趣味の書庫話」で少し触れたけれども、「水の時計」(初野 晴)について。
事故に遭って脳死しているはずの少女が、自分の意志で身体の一部ずつを分け与えてゆく。
ときどきしか本を読まないわたしには精神的な痛みに同調しないための抗体が不足していて、
読んだことを後悔しながら痛くてたまらなかった。
ことに、脳死でありながら生かされている身体が初潮を迎え、開かない眼から涙が流れる描写は切なかった。
昇華される読後感ではなく、いつまでも胸にくすぶった。
「水の時計」は、「幸福の王子」(オスカー・ワイルド)を底本に書かれたミステリーなのだが、
わたしには寓話に思える。そういう意味では、「みどりの指」(モーリス・ドリュオン)もおなじ匂いを持つ。

前知識なく、題名に惹かれ図書館で手に取った「密やかな結晶」(小川洋子)について。
体のどこかが欠損してゆく過程に目をやり、静かに見つめるのはこの作家の特徴だろうか。
漫画「22XX」(清水玲子)も胸が痛む読後感だった。

 (これから読む予定の人はこの先を読まないほうがいい)

一方は食欲をプログラムされたが食という行為を厭う人型ロボット。
もう一方は夫を食べた母親から生まれ、自らも母親を食べ、
いつかは自分も子どもにそのようにして能力や命を継がせることを誇らしく考える惑星の種族の少女。
食という行為は神聖で、食事の前には長く深く祈りを捧げる。
狩りで獲物を得る種族にとって肉体の欠損は命取りであるのに、
彼女は危険な目に遭って動けないロボットをロボットと知らずに自分の一部を分け与える。
けれどもロボットはどうしてもそれを食べることができず、後に食欲のプログラムを外す。
そして、なにも食さずともいられる今になって過去に食べたかったものを思うとき、
それはたったひとつ、あのとき彼女から与えられたものだった。



ところで話は変わるが、
生まれ変わることのないよう、天の人によく頼んであるので、わたしには生まれ変わる予定はないんだが、
矛盾するようだがもしもそのようなことになったなら、
わたしは看護士になりたいと思っている。





友人のところ
百夜話 22夜 神さまからの贈り物 (「密やかな結晶」のこと)
追って:
本の題名を間違えたので訂正しました。夜中に書いた夜話なので、頭に木瓜の花(ぼけのはな)が咲いていました。
 正 「水の時計」
 誤 「青の時間」



今夜は晩冬から早春にかけて読んだ活字、読むつもりの活字を積もう。
ほとんどの活字は言うまでもなく漫画。
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上から五冊目「遠藤浩輝18」というのは帯で隠れてしまった「EDEN」の最終巻。
十年以上の連載だったとか。

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このお写真は
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この地のレッドデータで準絶滅危惧種に指定されている高山植物、シラネアオイ。
盗掘などで少しずつ持っていかれて減ってしまった。
花は、身を与えようなどという意思さえ持たず、ただ咲くだけで献身なのかもしれないのに。
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by NOONE-sei | 2009-05-14 03:02 | 趣味の書庫話(→タグへ)

5夜 幼年期の終わり


好きな邦画で、『ジュブナイル』というのがある。
少年達と未知のロボットとの、ひと夏の出会いを描いたSFファンタジー。
少年期にしか味わえないような出会いと別れが甘酸っぱかった。
その時の子役はすっかり青年になって、ときどき映像で見かけるとやっぱり甘酸っぱい気持ちになる。
少年期、ジュブナイル(juvenile)という言葉のひびきがなんだか甘くていいので、
幼年期はどうだと思って調べたらただのChildhood、なんだつまらない。

本や服や絵の道具などなど、身辺にあるものを整理している。
身辺整理とはよい言葉。もうすこしだけ簡素な暮らしがしたくなった。
好きなものに囲まれて暮らしたいけれど、好きで集めたものに埋(うず)もれたいわけじゃない。
サブカルチュアもキャンプ(スーザン・ソンタグ)も、その概念はよくわからないけれど、
ソンタグの言葉の一部を借りながら言えば、不自然なものを好み、部外者には近寄りにくく、
少数者の趣味の世界のものが増えてしまった。
結果的にそうなっただけだが、たとえば趣味の本を書庫にしまっておいても、もう一度開くことはまずない。

自分にとって、ほんとうにこれからも友であり続けるかどうか、そう思えないものは整理する。
と同時に、少年期というのか少女期に読むべきだったものも読み始めている。
物語を読んで幼年期を過ごしたわたしは、少年期に偏ったものを読み、青年期からは本を読まなくなった。
けれど、本も漫画も、活字という点では等価値で、そういう意味ではわたしは今も活字が大好きだ。
最近、ダンボール箱ひとつ、スタンダードな本を贈ってくれた方がいて、
理由は聞いていないけれども彼も本の整理をしているという。
その本のすべてを読むことは無理だから、王様に手伝ってもらおうと思っている。

鰐号がひとり暮らしをすることになった。
将来、この家にふたたび暮らす日があるのかそうでないのか、先のことはわからない。
わたしの本をほとんど読まなかった息子に、わけのわからない趣味のものを残すわけにはいかないだろう?
身軽になるにはいい機会、少年期を新たになぞり直しながらの身辺整理。
鰐号はいよいよ幼年期の終わり。



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これは初めに訳されたもの。
わたしが読んだのは最新訳の『幼年期の終わり』 (池田真紀子訳 光文社古典新訳文庫)
1953年初版から36年後に、新たに第一章が書き直された新版。
読んだら、今読んでいる『エデン』『緑の王』にも影響を感じる情景描写があり、
以前なら『銃夢』『天空の城ラピュタ』にもあるように感じ、たどればまだまだある。漫画だけど。
もっと以前なら小説『家畜人ヤプー』にも影響があったと聞く。
昨年のいまごろ、アーサー・C・クラークは亡くなった。


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上は『幸福の王子』を下敷きにした透明な読後感の小説。さわさわと悲しい。
下はこれこそ少年期に読むべきだったもの。
これまで幾度も途中で挫折してきたが、今度は終わりまで読み終えられるだろうか。
これを読んだら、少年期の終わりと言える?
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by NOONE-sei | 2009-03-16 03:24 | 趣味の書庫話(→タグへ)

97夜 明けても暮れても


いや、暮れたら明ける、のまちがいだろう?

今夜は暮れの三十日、わが家はまだ喪に服していて「歳とり」をしないから、
家族みなでゆるやかに静かに過ごしたかった。
じいじを失った鰐号めは、相も変わらず太陽でわたしを惑星にするのでそれもままならない。

はたちを過ぎたとは信じがたい日々の言動に血が逆流して、久々の乱闘になった。
鰐号は、引っ張られた耳は痛かろうが、人の気持ちを思えという言葉に耳は痛くない。
わたしは咳をすると鎖骨にひびく。
『咳をしてもひとり』は、尾崎 放哉(おざき ほうさい)だったか?
そのようなよるべない孤独の極みを知れとは言わないが、
男の子なら、そろそろ「ひとり」を知ってもいい頃だ。

男の子は早いうちに一人暮らしを経験するべきだ、と思っている。
一人になったことがない人をどうこうは思わないけれども、
地方にあって長男で家から出たことのない男性に、
ちょと惜しいな、と思うなにかを感じることはよくある。
とりわけ鰐号のような「なに様」ぶりの著しい者には必須じゃないかと思う。

幾度か促してきたのだが、うやむやになってしまうのは、
必要性を感じていないからだろう。
けれども、この乱闘で嫌な思いを引き金にして不承不承(ふしょうぶしょう)、出ざるを得ない、
それでもいいんじゃないかと思う。
暮れても明けても安穏と家がある、というわけにはいかない。

ところで、母 西太后から、そろそろ西太后の称号を外してやろうかと思っている。
父は理のある篤いひとだったが、母を大人にしないでしまった。
父が亡くなって、わたしが父の代わりになっていたが、
ちかごろようやく、変化がみえはじめている。
泣いて訴えたこともあったし、耐えたこともあったし、
それでも母というひとは変われないと思っていたら、そうではなかった。

ひとは、いくつになっても大人になれるものなのだな。
鰐号も、明けても暮れてもではいられないだろう?




今夜は冬の書庫。ほとんど漫画ばっかし。


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あれぇ?
古い漫画を重複して撮っている。 ・・ぼんやりだなぁ、まぁいいか。
あれぇ?
文字が読めない本がある。 ・・ボルヘスの「伝奇集」とサキ傑作集の文庫だ。
でもまだ読んでいないから、これもまた ・・まぁいいか。



カテゴリをすこし整理しました
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by NOONE-sei | 2008-12-30 03:07 | 趣味の書庫話(→タグへ)

絵のような 文のような  五




今夜はイヴだね。

カードは書いた?
贈り物は届けた?

昼間はどうしていたかな。
クリスマスってこそばゆくて、
イヴってすこし重たい。


・・だから、

ひとりでこんな日を過ごしてみる?



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ちょとかわいいでしょう?
「ちいさな王様」という絵本があるのだけれど、
これは、その王様が連れて行ってくれる、モーツァルトの森。



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森のおうちカフェで過ごそう。


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大きな粒のいちごをどうぞ。「あまおう」というのだって。
甘い王様だからではないそうだよ。



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昼の露天風呂は、のんびり気持ちがいいね。
お風呂から上がったら、すこしお昼寝をしたらいい。



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夕暮れだよ。
もみの木の根元にトナカイが迎えに来ています。
どこまで送ろうか?


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ほぉら、街はもう雪だ。
誰かがお店で待っているよ。
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by NOONE-sei | 2008-12-24 23:53 | 絵のような 文のような(5)

絵のような 文のような  四


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夜に動き出すものはなんだろう。
それは、スイカを食べに来る者。
・・そんなはずはない。

知覚融合のない、というより、ちょと鈍いわたしは、
なにかを見ても、脳が見たものと別のものを即座にイメージできるわけではない。
花だとか雲だとか月だとかいうような、具体的なものを見たとして、
視覚から脳にそれらの像がまず伝達されて、
それから別のイメージに変換されるまでには、ややしばらくかかる。
むしろ、文字記号のほうが、素早くイメージは膨(ふく)らむ。

ゆうべ、友人と飲んで帰る途中のこと、彼女が月を見つけた。
「ほら、あそこ、スイカのような月。」
わたしはあさってのほうを探し、夜のてっぺんを見上げたら、
月はなんのことはない、駅のすぐ上にあった。
・・スイカ?

緑も赤もない半月を見つけて彼女はスイカという。
満月であればウサギが居るあたりが、スイカの種だ、と。
・・見えない。

同じものを見ていながら、同じように見えない、
交じり合わないことはさみしい。
両の目で見て、脳で見て、それでも見たまましか見えないのなら、
せめてわたしは網膜の裏で像を結ぼう。
そして想像しよう。
夜、寝静まった頃に来るスイカ泥棒を。


                     * *


今夜は夜にスイカ泥棒を見張る者たちのお写真を。
・・嘘。ガーゴイルの絵本を。
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「ガーゴイルたちは虚空をみつめ、
町かど高く身をひそめている。
からっぽの目はまたたきもしない」

幻獣には惹かれるのだけれど、この絵はこわい。
昼に見張りの仕事をしている者たちは、なぜこんなにこわい姿になってしまったの?



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「夜がくるまでは。」

夜になって開放されて、壁や梁を這い下(お)り、自分たちがいた建物の中の、
ミイラや絵やよろいかぶとを見る。
地面に下りると集会をし、噴水の水をなめるけれども、石でできているので声はくぐもっている。
こんなふうに作った人間のことが好きじゃないから、いたずらしてこわがらせているうちに、
夜が明けて、翼のある者は飛んで戻り、無い者は這い登り、また次の夜まで。・・というお話。
訳が大人っぽくて良いのだが、名が体を現わして麗しすぎる江國香織と知って、ちょと驚いた。



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開くとこんな絵。


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これは、昔からいいなぁと思っている岩波の本の紹介誌。絵が楽しみなので、おまけに載せてみた。



東京には久しく行っていないけれど、こんなところこんなところには行ってみたい。
ガーゴイルってこんなもの


いつも予告している次の夜のことだけれど、クリスマス・イヴかしらん?
シワ コ に用意をさせなくちゃ!

ちかごろの犬たち
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by NOONE-sei | 2008-12-21 02:49 | 絵のような 文のような(5)

絵のような 文のような  参


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秋の夜長ということばがあるけれども、冬の昼間こそ短い。
夕暮れはあっという間に夜になって、かちんと輪郭のある月が出る。
月の近くには、木星と金星が仲良く居るのだとか。
わたしの住んでいる場所では、星々が見えすぎるほどよく見える。

夜だとか月だとかいうことばには魔力があって、
実際に見る夜より月より、想像する夜の面積は広く、月は光る。

綺麗な本や挿絵にも魔力があって、
絵が目をとろけさすとしたら、文は眼をとろけさす。
目は器官だから、実際にはとろけるはずはないんだが、
眼はまなざしだから、文のもたらすものは蠱惑(こわく)的でくらくらする。

・・絵のような 文のような
こうして書く夜話のお題にはぴったりとこないかもしれないのだけれど、
とろけさすようなものたちから受ける感触を
なんと名づけたらよいものか、わからなくてわからないまま
そのままをお題にしてしまったというわけ。


                     * *


さて今夜は宇野亜喜良の挿絵の絵本を。
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道化師が出てきたのはこの絵本。「あかるい箱」(作・江國香織)
江國香織の書いたものって、これ以外に読んだことがない。
名が想起させる体(たい)が、麗(うるわ)しすぎるからだな。


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表紙をめくるとこんな感じ。


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まあ。なんて可愛くて憂いのある女の子の悪魔なんでしょう。



ここからはいろいろ。
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寺山修司展に伴って、劇団万有引力が美術館のすべてを使って観客と遊んでくれた。
そのポスターと懐かしい書式のチラシ。


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寺山には欠かせない宇野亜喜良。あんまり懐かしかったので、作品集を引っぱり出してみた。



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幻獣に乗ったジュリさん。


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大好きだから、大写しのジュリさん。

ところで、夜に動き出すものたちの登場する絵本があるのだけれど、
このお話はまた次の夜に・・。
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by NOONE-sei | 2008-12-13 03:21 | 絵のような 文のような(5)

絵のような 文のような  弐


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冴え冴えと脳が働くわけでもなく、
今のわたしは使いものにならないわけで、
おはなしも文章も低迷している。
読んでいるひとたちは、こんなものでおもしろいだろうか。
申し訳なく思う。

過去の夜話(よばなし)を読み返すということは、あまりしない。
それは過去に遡れば遡るほど、こんなことを書いてよいのだろうかと、
どきどきひやひやしながら、薄氷を渡るような心持ちで書いたからで、
それは拙(つたな)いものだったけれども、いつも決心をして書いたからで、
張り詰めていたひとつひとつのそれら夜話は、今のわたしには書けないからだ。
それらに、少なくとも脳が鈍っている、今のわたしの緩さはない。
書けないものを目でなぞるのはつらい。


名は体を現わすというだろう?
名には、文章をつないで想起させるほどの力があって、
先の夜話 壱に登場させたほとんどよく知らない作家であるのに、
小川未明、その文章がどれほど読むわたしを救われない悲しみに蹴落とすか、
新美南吉、その土着がどれほど読むわたしを木枯らしに立ちつくさせるか、
それを思うと背表紙に手を伸ばせない。
鈴木三重吉という名からは、先にも言ったとおり、なにも感じないからよくわからない。

先ごろ、文章をある誌面に掲載される機会があり、
うっかり筆名を打ち合わせずにしまったものだから本名に近いもので載って驚いた。
わが家の子犬はうちに来る前、仮の名が「セイ」だったという。
理由は聞いていないけれども、天然なところはよく似合っていたと思う。
・・どうせなら、ペンネームもどき、犬の仮の名と同じでよかったのにな。


                     * *


さて今夜は本のおはなし。
・・ではなくて、初山 滋が挿画を描いている本が綺麗だったので、そのお写真を。
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となりの道化師は宇野亜喜良の挿絵の絵本。
このお話はまた次の夜に・・。

本日の子犬
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by NOONE-sei | 2008-12-12 03:14 | 絵のような 文のような(5)