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95夜 はなくそ


やっぱり書きたいことがいっぱいあるよ、どうしませう。


今夜のおはなしは獣にまつわるあれこれ。

テン コ の鼻にはいつもはなくそがついている。
いや、本当のはなくそじゃない。
黒い色素が歯茎や唇にぽちぽちあちこちについている。
その色素が鼻にひとつあったのが、四歳近くになったら正中線上にぽちっとはっきりしてきた。
それをわたしははなくそと呼んでいる。

シワ コ は見た目には黒い色素はなかった。
でも、口をあけると舌に黒い舌斑(ぜっぱん)があった。
これがあると気が強いだとか癖っ気があるだとか気質的には多少問題傾向があるらしい。
たしかにシワ コ はきかない女だった。
気性が激しいことをこの地ではきかないというんだが、これは共通語か?

シワ コ がいなくなったら、ペロ コ が急に何に目覚めたのだか、わたしの御付きの者になった。
いつもわたしを目で追ったシワ コ とは違い、どこに行くにも家や敷地をくっついてくる。
しかも動線上にくっついて歩き振り向くので、わたしはペロ コ を踏みそうになったりつまづいたりする。
だからわたしはペロ コ を「御付き」と呼び、王様は「動線上のペロ コ 」と呼ぶ。
言わずもがなバッハの『G線上のアリア』である。

王様はテン コ は年を経るにつれシワ コ に似てきたという。
きかない。家族以外には触らせない。ずいぶん慣らす努力をしたのだが。
シワ コ は誰に触られてもよいようにしつけ、実際誰に触られても従順だったが、
家族以外に触られるのを本心では好まなかったし腹も見せなかった。
ペロ コ は誰にでも触られたい。
家に人が来ると、その膝によじ登り丸くなる。大型犬なのに。
ちかごろは、もし口をきいたなら敬語を使うことを覚え始めているのではないかと思えるふしもある。

介護の休みをもらえた日中は、わたしはほとんどでかけない。
昼まで家のことや庭のことをこなして、午後からは自分のためにちょっとしたつまみを整え、
明るい背景音を選び、グラスにワインを注いで本や漫画を読む。
そのうちに日々の疲れが顔を出し寝てしまう。
すると足元にテン コ が丸くなり、わたしの隣でペロ コ が丸くなる。
時には獣たちがもっと近くで寝てしまい、鼻息寝息がわたしにかかることもある。
母が帰るまでのほんのひとときだけれど、幸せで贅沢で大切なひとりの時間。

時々訪れる幸せな時間もある。
弟のような男友だちが、互いに休みの日が合うと自分の作った料理をメールに貼付してくる。
これみよがしに、どうだとばかりに、たとえばオーブン料理とワインの瓶とグラスも写っているので、
わたしはわたしで愛情たっぷりな皮肉でエレガントに返事を返してやる。
彼は娘が進学して上京したので今は猫と暮らしている。
わたしたちは休みの日が合っても、まずめったに会うことはない。
ひとりの時間を大切に過ごしているのだな、とわかればそれでいいんだ。

ところで猫というものはたいへんに綺麗好きでおしゃれで、いつも身づくろいをしている。
けれども目やにを自分で取るということができない。
テン コ が、シワ コ には取らなかった生意気な態度をペロ コ には取ることがある。
いつも我慢しているばかりではないが、ペロ コ のほうがテン コ に比べたらずっと心優しい。
ペロ コ も自分で自分の目やにを取ることができないけれど、でもペロ コ は目やにだけだ。
テン コ は「目くそ鼻くそ」じゃないか。




□わたしに幸せをくれる獣たち
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ペロ コ 、ついさっきまで寝てたね?
向かって右のまぶたの上に目やにがあるよ。


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テン コ 、鼻のまんまん中にはなくそをつけちゃって。


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どちらの獣もなにか目で言っているにちがいない。


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せっせとペロ コ を舐めてやることがあるテン コ 。


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はい、おやすみなさい。




□もうひとつの幸せ
時々、近所の馬たちにおやつをやりに行く。
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このお写真はイメージだけ。
外乗といって、乗馬レッスンではなく松林の中を馬に乗って小一時間散歩しに王様とたまに行く、その牧場の馬。

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こちらが近所の馬たち。
そこは農家の人が道楽で飼っているだけかと思ったら、ちゃんと乗馬クラブで、
浜通りの相馬野馬追いという由緒ある伝統行事にも出ていると、おやつをやりに行って初めて知った。
それが数年前、鞍もつけずに裸でうちのほうまで脱走して散歩に来ていたとは。

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おやつはかごの中のニンジンと葉っぱ。
近所のおじさんで、王様の「畑の先生」のひとりが時々立派な野菜をくれる。

 
# by NOONE-sei | 2014-11-30 23:52

94夜 わたしの作庭帖


書きたいことがいっぱいあるよ、どうしませう。


今夜のおはなしは庭にまつわるあれこれ。

庭というのは、自然界のあれこれの再現なのだろう。
盆に間に合うようにと松の剪定に来てくれた庭師が、父の残した庭を見て、
「これは吾妻山の石を使った景色だね、このあたりの造園屋に頼んだの?」と言う。
わたしは何十年も前のことを知らない。
しかも、山野草にも、ましてや松だの石だのには全く興味が持てなかった。
王様なぞ、「手も金もべらぼうな松は三本とも切ってしまえ、庭は潰してしまえ、
じいちゃん大好きだけど、この道楽だけは負の遺産だ」などど言ってのける。
昨今はひとり一台の車を持つのが当たり前なので、
車のために庭をガレージに作り変えることはめずらしくない。
今では作り込んだ造形の日本庭園は人気がなく、自然形に近い雑木の庭が和洋を兼ねていて人気だ。

母が音を立てるように認知力を失っていった五月から七月、わたしは松の手入れをしていた。
庭にいると家の様子がわかるし、脚立に上っていると気持ちがよかった。
脚立が山野草を踏まないよう気をつけたり苔を傷つけないようしているうちに、
やがて庭の隅々に目が行くようになった。
雨が降ると大きな木の下で雨宿り、犬も猫も雷が鳴るとわたしの陰に隠れるが、
寄らば大樹の陰になれない小さいわたしよりも、松は四十年もどっしり立っている。
その庭の松三本のうち、門かぶりだった松と一番華奢な松を残して、
もうわたしでは手入れできないほど育って電柱の邪魔をしている松を切ることに決めた。
庭師の仕事はさすがに速く、伐採も門の松の剪定も一日で終わった。
わたしが最後まで仕上げた華奢な松は、結構いい出来だと褒めてもらった。

今年の二月は、早いもので父の七回忌だった。
それが済んだら、庭の池を空池(からいけ)にさせてもらおうと思っていた。
鯉とドジョウの棲む池に土を入れ、苔と岩ヒバを植えてまた違う風情の池に作り直す。
もう父もうなずいてくれると思った。
二月は春のような暖かく晴れた日と大雪の日が交互にやってくる。
その狭間に、父の七回忌を家族だけで行なった。
雪が降り始めた日の朝、長靴を履きスコップを持って父の墓の雪を払い、
花だけは春の、桃のつぼみとチューリップを供えてから寺に出かけ、
あぁもうあれから丸六年なんだね、と和やかに読経してもらい、塔婆を墓に立てて帰った。
母を気遣いながら外で食事をするよりも、家に仕出しを届けてもらってゆったりしよう、
庭のことなどのんびり話しながら酒を飲んで過ごそう、そんなふうに静かに法事をした。

今になって思うのは、父がわたしに手を合わせて頼んだ母の行く末。
その母は強運の持ち主で、さすがに西太后だということ。
先日、ついに徘徊して母が心の中の郷里に向かって歩いた時、
さほど遠くない場所でおかしいと気づいて警察に通報してくれた人がちゃんといた。
本庁まで迎えに行くと、がっしりと頼もしい若者の警察官をはべらせて母は嬉しそうだった。
現在の郷里と母の心の中の郷里はすでに乖離しているので、実際に連れて行っても意味はない。
そのように、容れ物としての身体に余病がなくても脳が機能しなくなってゆくことがある。
反対に父の場合は脳の意識が最期まであり、容れ物が保たなくなっていった。
認知症は母本人のためのもの。死を怖がらなくしてくれる神の配剤。
癌はわたしたち周囲のためのもの。死というものを知る機会をわたしたちに与えた神の配剤。
母では心が弱すぎて、癌と闘えない。

「セイはもともとのイメージからして野の作業のおばちゃんだよね。」そう言葉に出したら、
自分の言ったことに笑いの拍車がかかり止まらなくなった不届きな男ともだちがいる。
不届きではあるが、そう外れてもいない。なぜならよく日に焼けて麦わら帽子を被って立つ姿は、
悔しいが男ともだちの言う姿ではある。
わたしは今、空池作りに精を出しているのだ。
とはいうものの自然界は怖い。安達太良山も吾妻山も怖い山だ。
安達太良では火山のガスの流れる場所があるし、吾妻では震災以降水蒸気の噴煙が立ち上っている。
その怖い自然界の山を模した庭に手を入れるにはそれなりの鎮めをしなければならない。
切る前には松に酒と塩を 水を枯らす前には池に酒と塩を。

お神酒(おみき)というくらい神に酒はつきもの。
なにやら神を数える単位は「柱」というのだとか。
松は木だから一本二本だと思うのだが、酒を撒くとは特別だからもしかして一柱二柱か?
夕方、池の石組みと土入れをしていたら王様が帰ってきてこんなことを言う。
「ご精が出ますなあ。松の次に土と石では、行き着くところまで行っちゃったね、ははは。」
人間は年を経るに従って花から緑へ、そして土から石へと志向が動いてゆくというけれど、
これはずいぶんな言いようだ。王様め。

ところで、仏はどう数えるのだろうか。 
仏像は一体二体。仏の姿は生々しいもの、だからきっと、おひとりおふたりにちがいない。



□法事の仕出し
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法事だからといっても、精進にこだわらずに賑やかに。

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てんぷら


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きぬかつぎをきのこに見立てた包丁技、日本料理は面白い。


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鰐号が用意したワイン。




□庭の変遷

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六月、暑い日の庭。


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八月、これから松の清め。


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松、伐採中。


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松、剪定中、その手際の良さと腰の道具袋。


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松、完成。わが家の男たちはこれから池の掃除。



□池の変遷

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存在感がありすぎる池。


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自家繁殖していた鯉と、鰐号が小学生の時に釣った、まるでウナギのように大きくなったドジョウを捕まえて川に放流した。
ドジョウの寿命ってどれくらいあるんだ?

お久しぶりの獣たち
# by noone-sei | 2014-10-01 23:24

閑話休題 残暑お見舞い


茗荷(みょうが)の花の冥加(みょうが)で残暑見舞い。
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昨夏に植えたミョウガが初めて収穫できた。
今夜のお写真は畑で採れたいろいろ。


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盆が明けて夜は虫の声がするけれど、ひどい雨が降ったりひどい暑さだったり、
四季の変化は底意地が悪いのか、なかなかそう簡単に夏の峠を越させてくれない。




この鄙びた辺境のウェブログを 予告もなしにお休みしてしまいました。
ほかにネットワークを持たないのでいつかは復帰してだらだらずるずると続けてゆくつもりで、
焦ることもなく休んでいました、勝手にごめんなさい。

犬も猫も元気です。王様は『畑の王様』、順調です。
母はずいぶんと遠くのひとになりました。
母の変化に日々足掻く(あがく)わたしに、「貴女が思うより、もう、ずっと遠くにいるのかもしれないよ」
親身になって教えてくれるお医者の言葉がなかなか胸に落ちなくてこの数ヶ月を過ごしました。
食えず飲めず足掻きましたが、現在、さほどからだは悪くありません。

ぼちぼちとまたおはなしを書いてゆきます、ゆるゆるおつきあいください。





ところで、PCを替えてずいぶん経ったのだけれど、以前のものよりも文字変換がぴったりしないままだ。
久しぶりにこうして文字を打つと、どうも気取ってわざと難しい変換をしているのかそれともお利口でないのか、
小難しい文字を提示してくるので力が抜ける。
だから今夜の書き出しはそれを逆手(さかて)にとってミョウガの駄洒落にしてみたよ。

  茗荷(ミョウガ)→ 冥加  冥加とは:気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵。
                      また、思いがけない幸せ。冥助(みょうじょ)。冥利(みょうり)。

  虫の声→ 蟲の声 蟲とは:「有足を之れ蟲と謂ひ、無足を之れ豸と謂ふ」足のある生き物全般のことを指す。

  辺境のウェブログ→ 偏狭のウェブログ  偏狭とは:自分だけの狭い考えにとらわれること。


ほらね、なんだか小難しくないか?
# by noone-sei | 2014-08-25 01:18 | 閑話休題(22)

93夜 百%勇気


朝早くに花火が鳴った。
肌寒くて曇り空は、ぴかぴかに晴れた空よりも運動会にはちょうどいい。

ずいぶん前のこと、朝早くに家の前を通りかかったおばさんに声を掛けられた。
「今年が最後の運動会だからね、おにぎりいっぱい作ったんだ、早く行ってやらなくちゃ。」
いつもは細い眉毛できつい化粧の怖いおばさんだ。
上に成人した兄や姉がいるので大人びていたその家の子が、まだ小学生だったことを思い出した。

鰐号がわに丸だった頃、テレビでは忍者のアニメーションをやっていて、
子どもたちはみなそのテーマソングが好きだった。
わに丸の運動会でも、わに丸たちの学年が出場するときにはその曲がかかり、
小学生最後の運動会でも学年のテーマソングだからとそれを流すという、放送席が粋なはからいをしてくれた。

あのときおばさんの言葉を聞いても、そんなに弾むものだろうかと、わたしにはその気持ちがよくわからなかった。
わからないなりにも、運動会というものはお祭りと一緒で、地域が町内が身内が皆で弾むものなんだろうと思って、
毎年の運動会には夜のうちに下ごしらえをして、朝は早くから起きてせっせと弁当を作った。
わに丸は幼稚園の運動会で食べたことがあるという『かぼちゃのコロッケ』をいつも楽しみにするのだが、
毎年毎年作ったが、どう手を替え品を替えしてみても、及第点はついにもらえなかった。

子どもだということは、記憶をきちんと言葉に置き換えて人に伝えることができないということ。
わたしが知らないそのコロッケがどんな形状でどんな状況で口に入ったものなのか、
今でもわからないままわに丸は鰐号になって成人してしまった。
じゃあ今なら聞けるかというと、なぜだろう、聞くことがためらわれる。
これをこの地の方言で『おもかげおそろし』というのだろうな。
なんとなく、知ってしまったらわに丸運動会の色が塗り変わり終わってしまうような、そんな気がしてくる。

運動会では、高学年はよくはたらく。自分の席に座っている暇がない。
ひとり何役も係を抱えており、常に準備や段取りに駆け回っている。
わに丸が最後の運動会では、華々しい出場場面の記憶がない。
一年生のちびさんをおんぶし、片手でもうひとりの手を引いて手洗いに連れて行くのを見た。
四月に入学したばかりの、ついこの間まで幼児だった一年生のおしっこうんち係は大きい子の仕事だ。
弁当もゆっくり食う暇などなかった。

わに丸の運動会には、幼稚園で一緒だった、別々の小学校になった子の家族や、
弟のようにかわいい王様とわたしの後輩を呼んだ。
弟分は当時まだ新婚だったのにひとんちの子どもの運動会に来てくれた。
横柄なわたしは弟分なのだから甥っ子のようなわに丸の運動会に弁当を食いにくるのは当然だと思っていた。
最後の運動会と言ったおばさんの気持ちや、わざわざ来てくれる弟分に、思いを馳せる繊細さがなかった。

その弟分が毎年、自分の子どもの運動会に呼んでくれた。
行ける時には王様も鰐号も行くので弁当作りはたいへんだったろうと思う。
その子も今年から中学生、今年は運動会はおしまい。
今朝の花火を聞いて、あぁもう運動会はないんだなぁと思い至って、やけにさみしかった。




そんなわけで今夜のお写真は運動会。


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ラインは懐かしい石灰。


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走る。


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走るということは地面から浮くということなのだな。


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赤組の勝利の旗。



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全部うしろ姿。子どものうしろ姿は可愛い。




□美味しいもの
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炊き込みごはんと山形芋煮


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コロッケとラザニア


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ショートパスタ


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ラザニア拡大

実はこの子の運動会は、三年前の震災の年には中止だった。
翌年は線量計測の上、早回しで実施したので、昼はもう帰宅して各自自宅で摂った。
上の美味しいものは、弟分の自宅で馳走になったもの。弁当と呼べなかった年がこの時。




□その翌年の美味しい弁当
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エビフライとポテトサラダ。ところでおにぎりというの?おむすびというの?
弟分はにぎり飯が得意だ。


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ラザニアふたたび。
わに丸にとって『かぼちゃのコロッケ』がそうであったように、この子にはラザニアが運動会の象徴なのだろう。

犬も走る
# by noone-sei | 2014-05-18 00:09

92夜 おっかけおっかけ


うわ、明日は五月だ。
もう早春などと言ってはいられない。
梅が咲き花桃が咲き桜が咲き、桜が散りかかる頃に実のなる桃の花が咲き、
その桃の木に葉がつくと街路にアメリカハナミズキが咲き出す。
今はちょうどそのハナミズキが満開。
ハナミズキはすこし品のない花だと思うのはわたしだけだろうか、花のひとつひとつが大きすぎる。

すぎるのは四月もそうで、
新年度であり早春の爆発するような開花があり身辺に大きな変化がある。
消費税の加算は過算とも言い換えられ、福祉制度は大きく見直され介護者に負担を過重したことは
税率の目くらましであまり知られていない。
母が台所に立ち、包丁を持ったり洗い物をしたりするのをうながし援助してくれていたヘルパーさんの
時間が半分に短くなった。
二時間あれば、ヘルパーさんは母に、家族のために天ぷらを揚げるという充実感を与えてくれた。
実際にはなににつけ危なっかしく、だからこそヘルパーさんの介護技術がものをいうのだが、
そういう現場のクオリティを認めてもらえなくなった。
つまり母には、一時間で用意し食べさせ終えればそれでいいという内容に変わった。
わたしには与えてやれない刺激や会話や傾聴、そして家事をやり遂げる充足感、それらを
ヘルパーさんにはこれまでたくさんもらった。

政治も制度も品がない。生きる心地も生きている心地もこんなに身近にあるというのに。
過ぎたるは及ばざるが如し、けれども及ばなすぎると追いつかなくて幸せから遠ざかる。
福祉、その意味は「幸せ」だろう?



今夜のお写真はおっかけたら追いついた馬。
26夜 ときおりの休息 弐  秋は馬車に乗って2009,09,13
今から五年も前のこと、うちの近くまで散歩に来た馬たちにようやく会えた。
行ってみたらほんとうにうちの近くに馬場があって、わたしの姿を見つけたら柵までたかたかと寄ってくる人懐こさ。
そこでは田んぼの中に馬場があって三頭の大きな馬を飼っている。
ほんとうは鼻づらを撫でてやりたかったのだけれども、飼い主がトラクターで田おこしをして近くにいなかったので
残念だったが我慢した。

今年の春は、先日うちからすこし離れたところで、逃げ出してのんびり路肩の草を食むポニーを二頭見かけたし、
馬づいているなぁ、と思ったら午年(うまどし)なのだな。

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仲良く並ぶ馬たち。やぁ、五年ぶりだね。




□三月中旬には
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畑のふきのとう

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庭の福寿草




□四月初旬には
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庭の一輪草(アヅマイチゲ)

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庭のカタクリ

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池のほとりのクリンソウ




□四月中旬には
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庭の水仙

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ちいさな青い小花が勿忘草(わすれなぐさ)、から傘おばけのちいさいのに似ているムスカリやミントやビオラと花器に生けてみた。



■おまけ
女ともだちと昼ごはん
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前菜にキッシュ

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トマトのサラダ

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ショートパスタ牛の胃袋のトマトソース

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ロングパスタあさつきは春の香り
# by noone-sei | 2014-04-30 23:29