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20夜 復興の街


311以来、初めて高速道路に乗った。そして初めて県外に出た。わたしは浦島亀子か。

今年も一箱古本市に参加、Book! Book! Sendai! の実行委員は
「いつもの日常がどんなに大切なものかを考えよう」と、中止にしないで開催を決めた。
準備中の期間はおそらくまだ震災の傷痕が生々しくて、街中が意気消沈していて、
開催への意欲を鼓舞するのには力が要ったことだろう。
しかし昨年同様、六月の仙台は本の月と定めてそのひとつ一箱古本市の参加者を募った。
参加者は約四十組。

坊さんと王様と三人でおもいおもいに一箱分の店を出し、
おもいおもいに商店街の通りを歩いて足を止めるお客と接した。
仙台は東北の復興のさきがけとなる大切な都市だ。
お洒落してデパートの買い物袋を提げている人々を見ると、
震災の傷はまだ各地で渦巻いているけれども、この街は歩き始めたのだということが感じられる。

翻(ひるがえ)って福の島の重たさはどうだ。
山ひとつむこうでも避難が始まった。
浦島亀子のわたしは、明るさを取り戻しつつある仙台ですこしだけ立ち尽くし、
ほんのすこしうらやましさを感じ、そして仙台は仙台なりに血だらけで歩き始めたことも知った。
福の島は復興にはほど遠く、今日と明日のことはわかっても、あさってのことがわからない。
希望を持とうにも持つ端から取り上げられているような日々だ。
あさっての見えかくれする街やなにもかも失くしてもあさってだけはある、そういう所には
前を向いて歩いてくれと願ってやまない。

帰りの高速道路のパーキングエリアで、初めてボランティア・バスを見た。
いつもは自衛隊の、行方不明者捜索と原発立ち入り禁止区域の警備に向かう災害派遣車、
そして避難しているコミュニティの子どもたちがいくつかにばらけて通うスクールバスを見ている。
放射能で手をつけられない瓦礫にはまだボランティアに入れない所が多くあるので、
体を張って働きに行く彼らを生で見たことがなかった。
・・バスが光って見えた。夕方だったからなのだと知ってはいるけれど。




□うろん書店
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それにしてもわれながらいい名前の屋号だなぁ。名付け親に謝謝。
準備した本は舞台、美術、文学などなど。王様は久世光彦や国枝史郎などなど。


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アーケードの商店街、いい夫婦。


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文化横丁、いい親子といいふたりづれ。


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文化横丁のうしろ。

今年も、昼には去年の旨い寿司屋がちゃんと店を続けていた。
親方親子が看板のこの店、じいちゃん親方は震災以来店に出れていないそうで残念だったが、
そのかわり孫が修行に入っていてうれしかった。だからというわけじゃないが、昼から銚子を一本。
ちょうど蔵元が地酒を納めに来て、親方は客たちに宮城の美味い地酒を振舞ってくれた。
ごちそうさま。

     
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by noone-sei | 2011-06-30 00:33 | 書庫まつり(12)

19夜 なくしたもの


長いこと飼っていた動物をなくした方がいて、
悲しみは悲しみとしてそのまま自分のものとして抱えていかねばならない、
朝、ご飯をねだる鳴き声の聞こえない寂しさ、悲しさも、
ずっと忘れずにゆくのだと言った。
わたしは、「なくす」とは亡くすなのか失くすなのかと考える。

世には時間の経過や日々の暮らしの積み重ねが忘れさせてくれるということがあるけれど、
わたしは業が深いのか、「時間も薬」と言いながらちっとも忘れようとしない自分を知っている。
折り合いだとか受け入れるだとか傷はいつしか癒えるだとか、
そんな触りのいい言葉群を日頃は意識して使っているくせに、
裏腹に記憶を絶対に手放さない自分も知っている。

悲しみが喜びに変わるなぞという経験をしたことはないし、
悲しみの波長が伸びたり縮んだりはしない。
「忘れる」ということは神とやらが子らに与えた愚かな救いの知恵だけれども、
ちかごろ、神なぞ信じないので忘れるために祈ることもなくなった。
「なくなる」とは無くなるなのか失くなるなのか。
壊れたものも死んだものも、替えのきかないものたちは総(すべ)てそれぞれの波長を持つ。

病の動物と死んだ動物と置き去りにされて殺された動物のためには祈ろう。
天に? ・・いや、天の者は今、欠伸(あくび)をしている。だから福の島の名物、虹に。


◆本日の百ケ日連打
梅雨の晴れ間には虹が。
虹は波長の色。
本日見たのは長い長いもの。
長いものと虹は、どうしてこうも漢字が似ている?


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梅雨の数日だけ開かれたカフェ。名を NIJI cafe という。


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遠くの島からわが家にやってきた果物。
美しい名を 美生柑(みしょうかん)という。
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by noone-sei | 2011-06-29 01:22

18夜 いつともなしに


十八日が311からちょうど百ケ日(ひゃっかにち)。
本日は百十日。
言ってしまおう、
・・あー、なんだかつかれたなぁ。

わたしはメモ魔で、閃(ひらめ)いたらひと言ふた言書き留めておく。
そんな書片がたくさん貯まってしまった。
お写真もウェブログにすぐに載せられるよう、縮小し色加工し準備はとうにできている。
でもおはなしが書けないのだから、話にならない。
・・えー、駄洒落る元気はちょとあるのだな?

この地には「いつともなしに」といううまい言い回しがあって、
いつということもなく、という意味で使う。
ほんとうはリアルタイムでおはなしを綴りたいけれども、
季節感に追われるばかりで、緻密に纏(まと)め切る気力が伴わず、
気持ちのほうはさっぱり落ち着かない。
だから、いつともなしに脈絡なく、貯まるばかりでのしかかられたメモを
砂山を崩すように書いていくことにする。百ケ日連打をしよう、そうしよう。

百ケ日連打って、わたしの造語。
飽きるまでいつともなしに書いてみるよ、というくらいの意味ね。
おはなしになるかならないかは、、、
・・んー、ならないかも。


◆本日の百ケ日連打
「フクシマって言うな」
この地には福の島っていう名前があるんだから。


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美味しいものをいただいた。
チーズにメープルシロップをかけると素敵な気分。
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by noone-sei | 2011-06-28 23:55 | 百ケ日連打(9)

17夜 くちべにの花


こんな小さい町にも花屋はあって、
それが幾件もあると不思議な感じがする。
人に花を贈る機会はそうはないと思うのに、切花が揃えてあるのはなぜだろうと、
店先の彩りを見るたびに、いつも思っていた。

父が亡くなってほんの数ヵ月後に本家の伯父が亡くなった。
伯父の葬儀には、棺に畑の春の和花がたくさん供えられて印象的だった。
本家を訪ねると仏壇にはいつも育てた花があるのに感心する。
花への思いって、特別なもの?

五月に贅沢な花見を山あいの畑でさせてもらったときに、
こころから礼を述べたら伯母が言った。
「一生懸命に丹精した花だからナイ、観に来てもらって嬉しかったヨ。
んだけども、一番喜んでいるのは、観てもらった花だヨ。」
花が喜んでいる。そんな気持ちでわたしは花を育てたことがない。

月命日にはいつも花を持って父の墓に行く。
安達太良山も吾妻山も見えるいい所に墓があるので、行くとせいせいする。
本家に倣って近頃は庭の花を持ってゆくんだが、背の高い花がなかなかない。
本家の畑には背の高い花がたくさんあったとようやっと気づいた。
墓や仏壇に供えられるよう、本家ではもともと心がけて背の高い花を育てていた。
仏さまが居るようになって初めて、わたしもそうしたことに気づいた。

もう十年も行っていないが、
昔、絵を習っていた恩師の墓参は、寺の近くを通りかかったときに寄っていた。
急に行くものだから近くに花屋もない。
もちろん線香もないから、わたしはいつも、煙草を一本かばんから取り出して、
口紅をつけて線香の代わりに置いた。
・・煙草は線香、では、口紅は花?


                         *


今夜のお写真は、庭の花々を。

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すずらん


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みやこわすれ


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オダマキ


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これもオダマキ。織物の道具に似ているので糸繰草(いとくりそう)と言うそうな。


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ワカラン。名はなんという?


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これもワカラン。


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シラン。ワカランじゃなくて、これはほんとうにシランという名。


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父も庭の花を喜ぶだろう。


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田植えを終えた田んぼ。今はこれよりもっと青々している。


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近所の友人の庭からまっすぐに見える安達太良山。ぽちっとした部分が山頂。
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by noone-sei | 2011-06-14 00:10

16夜 鳥のことば 


果樹農家が少しずつ梨畑の周囲に植えた薔薇があんまりみごとなので、
ほんの数年前に一般に公開を始めてくれた。
英国庭園を模(かたど)った薔薇園は、
まだ実がほんの小さな、葉が青々とした梨棚の広大な群の中にある。
鳥の声を聴きながら蝶を見ながら、甘い香りが漂う小道を歩く。


カッコウって、薔薇の季節だけの鳥なのか?
托卵の鳥カッコウに薔薇とは、よく似合うと思う。 古くは

   憂きわれを さびしがらせよ 閑古鳥

松尾芭蕉が吟じ、「閑古鳥(かんこどり)が鳴く」とはものさみしい感じを表わすそうだが、
カッコウの声はものさみしいだろうか。声はことばだろうか。
音声を真似しやすいカッコウでなくとも実際には夏鳥の声は艶やかで、
この季節、せっせと青虫をヒナに食わせるシジュウカラのつがいなど頭が下がるほどで、
巣の持ち主の卵やヒナを巣の外に放り出してしまい自分だけを育てさせるカッコウの生態には、
また別の意味で頭が下がる。
同じ巣に別々のカッコウが托卵したら、カッコウのヒナ同士で巣から落とし合いをし、
敗れたほうには当然のように死が待っているわけで、
熾烈な闘いを生き抜く渡り鳥の繁殖には、托卵する鳥もされる鳥も、どちらも
首尾よく生きろと願うしかない。

鳥の声といえば、山のふもとの森でオオルリの声を聴いた。
ウグイスやコマドリと並んで日本三鳴鳥のひとつなのだとか。夏の歌姫なのだという。
歌姫といったらメスだと思うものだけれど、この美声にオスメスがあるんだろうか。
そういえば、花々を擬人化して表わすとしたら、やっぱりメスじゃないかと思う。
それとも、男性は花を同性と見る?花はおとこことばで話すだろうか。

カッコウもオオルリも遥かな地から渡って来る鳥だと、調べていて初めて知った。
渡り鳥にはなんとも言いしれない思いがする。白鳥くらいしか渡り鳥って知らなかった。
小さい鳥も、途方もない距離を旅するのだなぁ。・・やっぱり言いしれない。


                      *


今夜のお写真は、友人の家に招かれての食事会。
それは五月の初めの頃のこと。
まだ、余震が怖く、原発の先が見えず、日々を重い気持ちで過ごし、
他所の家で食事をするなんて考えられなかった頃でもある。
今はもう六月、月が変わるごとに気持ちだけは鎮まってくる。
とはいえ311以来、まだ映画館に行っていない。
ひとりで映画館に行くのが怖かったけれども、そろそろ行ってみたらいいんだろうか。

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美しい食卓。
実はこの日、皆で食器を持ち寄った。友人の食器は自分で吹いたガラス器の数点を除いて、
普段使いの器も大切にしていた器もほとんど全部が地震で壊れた。
実はわたしも、金継ぎや銀継ぎなど、漆で継いで大切にしていた思い出の器がいくつも壊れた。
形あるものは壊れるとよく言うけれど、壊れてもなお大切にしたいものだってある。
けれども311で壊れたものは、言いしれない思いの末にみんな捨てた。


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心づくしの料理。
煮物の大根は、冬に干して凍らせた凍み大根。


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花も飾って。


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ワインで乾杯し、日本酒を持ち寄って利き酒を楽しんだ。
わたしはこの日のために、とっておきの伏見の酒を。


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写真中央が持っていった酒、両脇は普段の酒、もう、酒はでぶの素にちがいない。

1250グラム
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by noone-sei | 2011-06-10 00:10