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42夜 化粧直し


母方のばっぱちゃんは旅館の末娘だったので、親が手放して嫁にやるのにしのびなく、
苗字を継がせて分家に出した。
そこで子が生まれ孫が生まれれば、亡きばっぱちゃんの家は本家となるのだが、
辿れば旅館が、本家の本家ということになる。
血は水より濃いけれど、薄まっていくのが本来の姿。
山あいの温泉町はちいさいから、血だけが薄まり付き合いは色濃い。
分家や新宅にとって、総本家は根に拠って立つ場所だ。

葬式などがあると系図が頭を巡る。
親の代、祖父母の代と、やっと糸が繋がるのはそういう時で、
誰がどこに位置するかという系図を浮かべて、集う人に挨拶することになる。
これが幼い頃にはなんだか恐くて、大きくなると疎ましくて、できれば避けて通りたいものだったが、
いつのまにか自分の子どもに長男の務めとしてこうしたことを仕込むことになった。
苗字だったり並び順だったり、滞りなく務めるための要点を伝えながら、
自分が背を向けてきたことを棚に上げて鰐号を教育する可笑しさに内心苦笑する。

小さい時から可愛がってくれた総本家のおかみさんが亡くなり、葬儀があった。
鰐号を伴って枕辺に別れの挨拶をし、改めて通夜と告別式に出席した。
華やかで気性は豪胆で、歌の上手いひとだった。
枕辺の顔は美しく、豪奢な宝飾品が亡くなってもなお似合う。
通夜の席では生前の歌が流れ、拍手が起こった。
それは「カスバの女」という古い流行歌で、小さい時に彼女に教わったからわたしも歌える。

死化粧はむずかしい。
生前の容貌を思い出させるものでありたいのに、そうでない場合も多い。
葬儀社の専門の人は、愛用していた化粧道具では整えてやらないことが多いからだ。
彼女の死化粧は彼女の娘と若おかみが施した。
枕辺から告別式までの数日間、毎日、日に二度化粧直しをしたという。
そうまでして保つおかみの顔とはなんだろう。
旅館の顔、総本家の顔、そして鰐号たちの新しい系図を目覚めさせる顔?




                       * * *



写真機パタリロの試し撮りと化粧直し
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上はオート。下はそれを色加工。


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上はオート。下は絞り優先パタリロまかせ。


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上は絞り優先パタリロまかせ。下はそれを色加工。


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上はオート。真ん中は赤を加えコントラスト強く。下は明るさを強く。

パタリロはほっとくと青が強く写る。ピントもまだよく合わせられないが、オートじゃないほうがいいのかな。
絞り優先に、お花マーク(マクロ)それにわざと離れてズームを使うと、周囲にボケ感が出るのかしらん。
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by noone-sei | 2010-01-28 03:23

41夜 書き文字


名は体を表わすように、書き文字も人柄を表わすと聞くんだが、ほんとうだろうか?
だとしたら英語の横書き筆記体のようにのたばった筆跡のわたしは、
相当な、まるで百歳も越えたような婆だ。あまりに達筆すぎて、人には判読できない。
その書き文字から、どう人柄を判断せよというんだ?

春から聴講している授業は「心理診断法」という。
実際に臨床の場や就職や就労時の適正診断にも使用しているさまざまな検査法を用いて、
それを実施する側になるための演習を行なう。
心理学の一分野だけれども、哲学でも文学でもなく、数学のようなもの。
結果を集計し、分析し、所見を割り出す作業は、犯人のプロファイリングとよく似ている。
ただこれが理科系でないのは、所見を書くために、多様な文章表現を要するところだ。
学生達もわたしも、たとえば死刑囚や極めて重い精神疾患患者の、
びっくりするような例を見ると所見を書くのに日本語が追いつかない。

「最高学府の高等教育を受けている皆さんは、身に着けた教養と知性をもって
社会に貢献する責任があります。   ・・ご本人のおつもりがどうあれ。」
と、教授はわざとこの先には社会というものが待っているんだぞ、というようなことを言う。
たとえば有名なロールシャッハテストなど、その集計は非常に複雑で込み入っていて、
頭がちんぷんかんぷんになるので投げ出したくなる。
教室全体が「もうやっちゃぐねー(もうやりたくない)」状態になると、教授が檄(げき)を飛ばすわけだ。

プロファイリングは最終目的ではなく、治療や社会参加のためのひとつの材料として検査がある。
診断にはいくつかの方法を抱き合わせて実施したほうが、より人物像が鮮明になってゆく。
そうした検査のひとつに、何十問かの刺激文に文章で答えてゆく、というものがある。
たとえば、「ちいさいころ私は」「私は将来」「お金は」「私の頭は」などという質問がずっと続く。
飽きずに率直に答えてもらうための雰囲気づくりも大切な要因だ。
集計するときには、内容ももちろん大切なんだが、実は筆跡や筆圧も所見に関わってくる。
そういう、見るべきところをまだ学ぶ前の、何も知らぬ段階で学生達は自らがまず検査を受ける。
どの検査もそうなんだが、まずは自分が最初の被験者になるというところが面白いし冷や冷やする。

さてその書き文字について。
最近、わたしは百八歳のお婆ちゃんの書き文字を見た。
手も震えずたいそう立派な文字で、「百八歳」と書いてあった。
趣(おもむ)きのある無駄のない書き文字。人柄も伝わってくるような。
この年齢を茶寿というのだとか。
茶を分解すると、くさかんむりは十がふたつ、その下は八十八、十たす十たす八十八は、合計百八。
新年に茶寿とはたいへんに目出度い。「うちの婆ちゃん、煩悩を越えるよ」とはお身内の弁。

蛇足だが私の刺激文への答えに教授が所見をつけてくれたら、「筆跡に年輪を感じます云々」とあった。
年輪・・って。 うーん、達筆すぎたのだなぁ。
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by noone-sei | 2010-01-22 03:31

40夜 ひとり


 ・メンタルな話なので引き寄せられる人は読まないほうがいい


ひとりの時間が苦しい時と、ひとりの時間がなきゃいけない時ってないか?
過去の事象に囚われると身動きがとれずひとりの時間が苦しいけれど、
再生へのプログラムを発動させる糸口が見つけられるとひとりの時間が必要になる。

時間が薬というのは正しい。
けれども時間をどう使うかで薬の効き目はちがってくる。
思考を痺(しび)れさせて捨て置くこともあろうが、飾りなく思考して向き合うという方法もある。

喪失というのは、別れだ。
この「別れ」という言葉はとても大切で、「別れ」をきちんと認めて初めていろいろなものが動き出すように思う。
動物の親と子の別れ、人間の親と子の別れ、人の別れ、男女の別れ。
父との別れは、むしりとられるような別れだった。
鰐号とのへその緒を切ってやる時には、動物の本能のような感触があった。
人や男女の別れは、濃密な関係であればあるほど破綻は苦しい。
どのような「別れ」であれ、それを認めるところから「別れを弔う」ことが始まり「再生」が動き出す。
再生には、ふたたびという文字があるけれど、脳細胞が再生するようなふたたびのやり直しではない。

これまでわたしは、どこにあるのかわからない心というものの単なる器として「脳」という語句を使った。
電気的な刺激で点滅するだけの入れ物じゃないかと皮肉な使い方をしてきた。けれど、それはもうやめよう。
これまでの嘲(あざけ)るような使い方は、自分を嫌ったり大切に思えない心情の反映だったから。
脳は、思考する脳だ。

ひとりの時間、「思考」してさまざまな「別れ」をして、今「弔い」をしている。
「再生」が始まるのはこの弔いを終えてから。




今夜のお写真は書庫。同じものが二度写っているのは、ぼぉっとしているやつなので勘弁。
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夏から秋への書庫。
「天顕祭」(白井弓子)は重厚だった。「苺田さんの話」(小沢真理)は面白かった。
「越後屋小判」(奈知未佐子)は切ない話。遠藤淑子には男女ペアの話をもっと描いてもらいたい。


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秋から冬への書庫。
荒木飛呂彦は懐かしかった。「乙嫁語り」(森 薫)は描き込みが楽しい。
「魔女」(五十嵐大介)は深い。「ひみつの階段」(紺野キタ)は丁寧な気持ちで読んだ。
・・と、いままでになく感想も書いてみた。

ところで知ったこと。
花郁悠紀子と波津彬子は姉妹、森薫と荒川弘は女性作家。
「鋼の錬金術師」も「D.Gray-man」も「家庭教師ヒットマンREBORN!」も女性作家のだったとは。びっくりだ。


追って:
いつもここに積むのは漫画であって本ではありません・・ 本はほとんど読まないのです・・

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by noone-sei | 2010-01-17 03:10

数のない夜  泣きながら


昔々、水の入った大きなやかんを持って走る少女のコマーシャルがあったっけ。
陸上のスポーツ選手たちに運んでいるのだったか。
この地で重い物を持ったり持ち上げたりすることを「たんがく」という。
やかんを持つよりも、やかんをたんがくというほうが、言葉だけで重さが伝わる。

この地ももう、標準語化が進んで、微妙なニュアンスまでを含めた方言を知っている者は減ってきている。
知っているのに使わないのではなく、本当に知らないから使えなくなってきている。
文章なら行間に、会話なら言外(げんがい)に潜(ひそ)ますという、難しいことをしないでも、
方言が懐深く救ってくれるということがたくさんあったのだけれど。
そのあたりのことが書きたくて、学生の頃わたしは方言を卒論に選んだ。

わたしの卒論は王様に書いてもらった。
アイディアと言いたい事を王様に伝え、それを文章に置き換えてもらった。
小論文だとか論文だとかいうものを 自分で書いたことがない。
だから文章作法もいまだによく知らない。王様、さまさまである。

ところでコマーシャルの少女は泣きっ面だったような記憶がある。
鰐号の子育ての頃、自分の母業を「泣き泣き走る」と言ったことがあるのだが、
もっと以前にも同じように「泣き泣き走る」について考えたことがあった。
女性の生き方のあれこれについて。
泣き泣き走るひと、泣いて立ち止まるひと、泣かずに歩くひと、、、、。
興味があったのは女性よりも実は男性のあれこれで、
手をつなぎ一緒に歩くひと、叱咤激励するひと、やかんに水を持って来るひと、、、、。
女性にあれこれあるなら男性にもあれこれあり、その組み合わせは無数にある。

年末に、「王様の千と線」を閉じてしまおうかと思ったのは、恐くなったからだ。
発作的に、データも残さず削除した夜話もたくさんあり、文章百珍は虫食いになった。
偶然ある場所で「再生」という言葉を見つけなければ、まだ闇にいたと思う。
現実世界でも闇の魔に囚われていたわたしに、王様はクリスマスカードをくれ、新年にはお年玉をくれた。
お年玉は現物支給で、不承不承出かけたわたしに選べという。
なんでもよかったから、現品限りの展示品をつかんで「これでいい」と言ったんだが、
超破格値のそれは、よそでどうかは知らないがわたしには似合うものだったらしい。
ペンタックスX70という真っ黒のカメラで、「パタリロ」と名付けた。理由は特にない。そうひらめいたから。

結局一度も王様からの叱咤激励はなかった。
王様はやかんをたんがいて来てわたしに水をくれたんだろうか。
それとも、わたしをたんがいた? ・・それは重かったことだろう。
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by noone-sei | 2010-01-06 02:40 | 数のない夜(23)

数のない夜  再生


2009年の喪失。
2010年は再生への願い。
そうだった、喪失には再生という言葉があることを忘れていた。

夜話はところどころ虫食いにしてしまったけれど、
鍵をはずそう。


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by noone-sei | 2010-01-01 03:01 | 数のない夜(23)