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78夜 聞いたらこわい


まだ暖かかった秋の終わりのある日、
おつかいに行った家の庭でカナチョロを見た。
飛び上がりそうになったら、その家の人は、
山の斜面を削って建てた宅地だからたくさんいるんだと言った。足がついているからまだ平気だ、とも言った。
わたしの足元をうろついたのはカナチョロトカゲ。

帰り道、足のことを考えながら運転していたら、
ずっと空いていたビルの化粧直しを見て思い出した。
そこは以前、自社ビルで、自宅と社屋が兼用だったので、上の階の窓には生活する様子が時おり見えた。
ある時、窓に貼り付くような長いものを見てぎょっとしたのは猿の足。

猿で以前に聞いた話。
遠い北国からお嫁に来たひとの実家は豪商で、
いち早く買ったテレビを店に来る客に見せていたから、珍しいからと大勢人が集まった。
当時は一日中なにかしらの放映があるわけではなく、
放映のない時間帯にはテレビの前に幕を下ろして、余興を見せた。
まだ幼かった彼女が日本舞踊を踊ったり、飼っている猿に芸をさせた。
猿の名は、エテ男とエテ子。足を上げてよく踊ったから、彼女より拍手を貰うこともあった。

わたしの中では足やら猿やらが、連想を呼ぶ。
昔流行ったのだ、こんな意地の悪い選択問題。

□問い
 あなたは自分の足で高い山を登らなくてはいけない。
 次の動物を連れて登るが、ひとつまたひとつと別れがある。
 どういう順に、何故、別れるか。
□動物
 牛
 トラ
 猿
 ウサギ

わたしは気味が悪いからまず猿と別れ、こわいからトラと別れ、大きくて鬱陶しいから牛と別れ、
最後にウサギを食べて、ひとりで登った。
ある人は食べ物を採って来てくれるから最後まで猿を残し、ある人は寂しいから最後までウサギを残した。
またある人は危険だから最初にトラを退け、ある人は愚鈍だから最初に牛を捨てた。
王様はうるさいから最初に猿を捨て、最後に食糧にもなる牛を残した。
男友達の選択にはひっくり返った。最後の最後までトラを残した。そのわけは、
・・・「トラに乗った僕はかっこいい。」

                   *  *  *

今夜は山のお写真を。
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動物の選択肢には無いけれどイノシシの名のつく場所、猪苗代湖周辺、朝のカラマツ林。

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猪苗代から遠く離れ、会津若松から只見に向かう途中の山。
昼だというのに山はもやをかぶっている。

この選択のつづきを聞きたい人だけ。
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by NOONE-sei | 2006-11-29 20:08

77夜 山の話 


今年も、熊肉を食ったという話を何度か聞いた。
イノシシや鹿の肉の話も聞いた。馬は普段から店頭にある。

秋の初め、いつも行く山のふもとの公園に熊が出た。
しばらく行かなかったら、今度は猿が出た。
山にどんぐりが足りなくて、里に下りてきたんだという。
公園には、熊に注意、とか、猿に餌を与えないでください、とか注意書きが貼られていて、
役所には「サル餌付け禁止条例施行」というちらしが置いてあった。

東北では熊猟は昔からあって、猟で仕留めた熊肉は食う。
熊を食うというと残酷に聞こえるだろうが、この地ではごく身近なこと。
ある町内の芋煮会では、その山で獲れた熊を三日がかりで臭みを抜いて皆に振舞ったという。
それでもまだ冷凍庫に残してあって、それは新年会のお楽しみなのだとか。
教えてくれた人はその町内の役員で、芋煮会の片付けの後には
会長が、旨い鹿の刺身で労(ねぎら)ってくれたと言っていた。
熊に鹿では精がつき過ぎたのではないかと訊ねたら、その人は参加した人たちの世話で
熊肉どころではなかったから、熊のほうは食わずに済んで良かったと言った。
どうして男衆は、人寄せをするとああいうものを振舞いたがるか、
鉄砲ぶちはとっておきの御馳走で男を上げたいものか、猟を分け合う血が騒ぐか。
人が集まる場で、実際の給仕をする女性たちの陰の功労はたいへんなものだ。

熊の被害に窮した地域では、訓練した犬で熊を追い払うと聞いたが、
この地でも野生の猿を追い払うための犬が訓練され始めたという。
昔は猿の肉を与えて味を覚えさせておいた犬を放すと、猿除けになったとも聞く。
その話をしたら、役員さんは

  「猿は撃てないよね、あれは、熊とちがって銃を向けると手を合わせて拝むから。」
その人はずっと北の生まれで山育ちだそうだが、思い出したように、

  「小さいとき私よりもっと山に友達がいてね、森をあるいて行くと友達が迎えに来るんだよ。
   それがヤギをつれて来るんだ、犬みたいに。私ら、アルプスの少女ハイジだったよ。」
と笑った。
 


今夜は山のお話だが、里のお写真を。
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吾妻おろしを遮る屋敷森。農家の周りは高い木に囲まれている。

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田んぼの用水路。右は枯れた草々、左にはセリ。

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次の夏を待つ桃畑はすこし寒々としてこわい。
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by NOONE-sei | 2006-11-26 01:51

76夜 犬の恩恵


今朝、何年ぶりだろうと思うほど久しぶりに、わに丸が犬と遊んで笑顔で学校へ行った。
わたしとわに丸の布団取り競争小競り合い以来、そう大きな衝突もない。
犬のおかげだ。
わに丸は、ときどき犬を外から茶の間に上げるようになった。
間を取り持ってもらうつもりなんだろう。
犬は部屋に来ても人にくっつくわけでもなく、背中を向けて寝ているのだが。
そして、行きたくなれば片手で引き戸という引き戸をばしっと開け、出て行ってしまうのだが。

犬の名はシワ コ 。
本名は、なんたらかんたらピンク・ヴィーナス。
・・似合わない。似合わないぞ、シワ コ 。
名もそうだが、ピンクというのがだいたいにして似合わない。

大病をしてから表情に柔らかさが出、「メス?」と訊ねられるようになったのに、
あれから二年近く経って復調し、今ではやっぱり「オス?」だ。
人間と距離を保つ犬。腹を出して寝る姿を見たことがない。
洋犬の着ぐるみを着ているが、一皮むいたら和犬、まるで柴のオスの性質だ。
ほかに人が居ない時だけすこし甘える。

だからあだ名をつけてやった。
「ゴルゴ13」、またの名を「無口なおんな」。

ゴルゴ・シワ コ だとわに丸に言ったら、わに丸がこう言ったのでひっくり返った。
「オレはずっと前から、シワオと呼んでる。」

シワオって、それ、もしかして   ・・シワ男?
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by NOONE-sei | 2006-11-23 00:22

75夜 泣かせてフラガール


「一山一家」
時代は石炭から石油に変わるとき、次々と閉山を余儀なくされる炭鉱会社。
豊富過ぎて捨てている湯、その湯脈のせいで落盤事故や鉱脈の水没と背中あわせの採掘場。
その日その日を命懸けで働く荒くれ男たち。

「東北のハワイ」
斜陽を 捨てている湯で乗り切ろうとレジャー産業を興(おこ)す。
山から帰る煤(すす)けた男たちは、ボンネットバスに皆鼻を押し付けるようにして
酒をらっぱ飲みして車の荷台に載るダンス教師(松雪泰子)を”ハワイだ、ハワイだ”と呼んだ。

『求む、ハワイアンダンサー』
時代の波を掴めない労働者たち。炭鉱を閉じる現実を受け入れられない。
久しぶりに志賀勝を見たと思ったら巨女の親父役で、娘を売りに来たかのような、
やっぱり酷(ひど)い役が似合う。
ダンス教師をはるばる追って来る借金の取り立て屋を寺島進が演じていて、これは若ければ
スッポンのような志賀勝の役かと思ったら、志賀の親父はちゃんと死んで、山崎静代演じる
娘(熊野小百合という役名も酷くて嬉しい)のダンサーとしてのプロ意識の芽生えに
一役買うところがまた嬉しい。

「何がわがる!」
いつもアロハシャツで教師や踊り子志願の娘たちを世話する吉本(岸部一徳)。
飄々としているけれど一度だけ教師を叱責するシーン。聞きとれない観客がほとんどだっただろうが、
実はここに本音の単語が幾つもあり、常磐(いわき)弁そのもの。
この映画の出演者は、岸部のみならず怪演怪優揃いだった。

「バレエシューズ」
田舎を軽蔑し、素人すぎる娘たちに教える意欲を持てない教師と紀美子(蒼井優)が争った後、
ピンクのバレエシューズが稽古場に置いてあった。メーカーはチャコットじゃなくてシルビア。
稽古するほどに足に馴染む、ダンサー好みのシューズ。

「タヒチアンダンス」
ひとりの稽古場で教師が踊る。松雪泰子が美しい。同じダンスを後に紀美子が踊る。
涙なくしては観られないクライマックス、施設オープンこけら落としのダンス。そのときの
ソロダンスにもなる。踊りは皆、当時の振り付けをほぼ再現しているとか。


いい映画だと聞いていた「フラガール」をやっと観た。
女たちの成長物語と見てもいいし、町おこしと見てもいいし、無くなると知っていながら
炭鉱に運命を委ねる男の物語と見てもいい。幾層にも重なるドラマがあった。
舞台は父が少年期から青年までを過ごした浜であり、炭鉱の町。
そしてわたしが成人するまで本籍地だった場所。
映画の中で延々と続く炭鉱住宅は、当時を思い出させる。
父の兄弟は所帯を持って皆この住宅に住んでいた。

いわき市に住んだことはなく幼い頃に訪ねた記憶しかないが、わたしの戸籍は炭鉱住宅にあった。
映画の中では貧しく描かれていたけれど、紀美子が母(富司純子)に踊りを反対されて
縁側に正座しているシーン。現実の伯父の家にはその縁側の下に池があり錦鯉が泳いでいた。
伯父の家に泊まった朝、豆腐売りの声が珍しかったわたしは、
その声をよく聴こうと縁側に立ったら、池に落ちて大騒ぎ、笑う伯父たちは皆底抜けに明るかった。
伯父たちはどの伯父も非番には昼から酒を飲み、朝から刺身を食うこともあった。
浜から魚が揚がるから、肉より魚が身近だった。

板一枚の下は地獄。だからその日その日を楽しく暮らす。食いたければ朝だって刺身だ。
そんな暮らしをしていたが、末の弟の父には将来を安定させてやりたかった兄たちは、
父を大工の年季奉公に出した。それ以降、父は炭鉱住宅に住んでいない。
そしてそこで育たなかったわたしはボタ山を憶えていない。
戸籍だけがあった住宅も今はなく、跡地に石炭化石館というミュージアムが建っている。


父のこと
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by NOONE-sei | 2006-11-21 00:24 | 新々百夜話 父のお話(8)

74夜 このごろの花


廃墟を思わせるような風情の土蔵や、抜かれて道端に転がる木の株や、
落葉した裸の木々、田んぼの畦(あぜ)に忘れられた藁、冬のたきつけの柴束、
田んぼは稲のざっくり刈り取られて枯れた痕(あと)。
花は無く、赤い葉も無く、朽ちた色と枯れた色ばかりだ。

魂が持っていかれるほど朽ちた場所に惹かれるのだけれど、
そこここ、どこも朽ちていると、どこにも惹かれない。
生きた場所に対比しての朽ちた場所なのだとあらためて思う。
風景が枯れきってしまう前に、赤を見なくちゃ黄を見なくちゃと急(せ)くのは、
色のある期に限りがあるから。
いまはさみしさの到来を予感するような、彩度の無い、いちばんつまらない季節。

  「なんしてらったい?」
  「あ、野菜を撮ってました、季節の。」
畑のおじさんに話し掛けられた。

  「今が、一番青々してっからナイ。今が節だから。
   こっちの、これ、雪降っと菜っ葉が甘くなるゾイ。うめぇゾイ。」
おじさんには野菜の旬がわかるのだ。

季節は途切れておらず、このごろの畑には野菜が花のようなお顔で咲いている。


                *   *   *

今夜は野菜のお写真を。
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野菜のお顔。畑の花々に見立てて。野菜の名前がわかるようになったのは、このごろ。
キャベツ・白菜・ブロッコリー、もうひとつは、なに?

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これらは真冬に甘くなるという、ほうれん草と春菊。


追って・・
やっぱりまちがえてしまった物知らず。ほうれん草と書いたのは小松菜で、本当のほうれん草はこちらじゃないかと思います。
葉の先が尖っていて付け根は薔薇に似ているような。
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by NOONE-sei | 2006-11-18 12:44

夜話の道草Recipe 芋煮会



わたしばかりが芋煮会、芋煮会、と弾んでいてはいけないな、と。
芋煮の流儀はほんとうにさまざまあり、
まして地元でないわたしがお教えするのもお恥ずかしいのですが・・・

仮想芋煮会にご招待。温まっていってね。
ほんの一例だと思って、笑ってご賞味くださいな。

芋煮汁の作り方
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by NOONE-sei | 2006-11-13 14:11

73夜 秋の雨、冬の雨


今月の日曜日はどれも特別だ。
芋煮会をしなくちゃいけない。きっと、この地の人たちはだれもがそう思うんじゃないかな。
それなのに雨続きで、夜は雷が鳴って、
今日の芋煮会の予定がつぶれた人は大勢いるんじゃないだろうか。

バーベキューとは言わない。
河原で石の炉に火を炊いて鍋をかけ、芋煮汁を作り、湯気の立つどんぶりからふうふうと食う。
主役は芋煮汁だけれど、脇役はおにぎりだっていいし、でもそれは無くたっていい。
具の無くなった鍋にうどんを入れて食うから。
実際には、焼きそばや肉や海鮮も焼くけれど、無くたって芋煮があれば芋煮会だ。

秋の収穫祭に米。でも、里芋がとれるとそれは特別なこと。
特に里芋が好きだというわけでもないわたしでも、芋煮には胸が躍る。
登山客へも、地域の運動会でも、白鳥飛来の歓迎にも、秋祭りにも、
振る舞いといえば芋煮。
地域の婦人会というのだろうか、女性たちがエプロン姿で大鍋を煮てくれる。
きっと今日もそうした行事なり、会社の親睦会だとか子供会だとかの予定なりがあっただろうに。

今日は、もうひとつ気の毒な行事があった。
わたしにとっては毎年のことだから、行事という感覚なのだが、
東日本女子駅伝が、今年はこの寒さのなか行なわれた。
町の中心、県庁を出発して何十キロもたすきリレーをする。
扇状地なので、山に向かってなだらかな坂道がずっとずっと続く。ほんとうにずっとだ。
うちのすぐそばを通るのでよく応援に行くのだが、沿道で応援する人の必ずひとりは一緒に走る。
ある年は子供だったり、ある年はおじさんだったり。
じかに走るさまを見ると、どれほどの速さなのか一緒に走ってみたくなるものらしい。
けれど、それは想像以上の速さなので、選手たちはあっという間に駆け抜けて行ってしまうが。
今日の選手たちは気の毒だった。
顔を叩く雨をぬぐうこともせず、もくもくと走る。
体中の熱を速さに換え、肉も骨もエネルギーに換えて走るんだろうに、雨は熱を奪う。
今年の沿道には、一緒に走ってみる人はいなかった。

もう、初雪も間近にちがいない。
昨日から雨は降っていたけれど、今日の雨は冬の雨だ。
みぞれまじりの雨って、こんな雨のことを言うんだろう。
物知らず、言葉知らずのわたしでも、肌に感じる冷えた雨だ。


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参考:芋煮のお写真はこちら
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by NOONE-sei | 2006-11-13 01:12

72夜 紅葉狩り 四


今夜のお話は、まるで里山だより。里山って、なにか馴染みのない言葉。

野分。「のわき」とはよく名づけたもので、いにしえことばに明るくないわたしでも、
丈の長い草野原を風が舐めるように倒してゆく、そんな映像が浮かぶ。
台風と思われがちだが、野分は風そのものより、嵐の後の情景を表わす言葉だという。

枕草子に紅葉狩りは描かれていないが、「野分のまたの日こそ」で、嵐が去ったあとの、
乱れた垣根や折れて伏した大木や痛々しい植栽の様子が描かれている。
不思議なのは、『いとをかし』、なこと。
おかしいんじゃなくて、『趣がある』、と訳すことがすでにおかしな感じ。
清少納言って、嵐で荒らされた庭のたたずまいを『をかし』と言って楽しんでいる?
あまりの荒れように、開き直ったのじゃなかろうか。

先日、強い風が吹いた晩に、雷が鳴った。夜半には吾妻山に初冠雪。
朝の山は稜線がくっきりと引かれて、白いかんむりを被っていた。
里や山のふもとに初雪が降るのは、いつかな。
里山が馴染まないから、里や山 ・・・また、はずした?


山に初雪が降る前に紅葉狩りにでかけたときのお写真。
うちから猪苗代を目指して山を越えたところの、そのまた山の奥。達沢の滝という。
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正月に観た「里見八犬伝」、玉梓の亡霊の呪いを打ち払うように自害した伏姫の腹から、八つの玉が関東一帯に散ったシーンのロケ地。

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不動明王が奉ってある修験の場。モノクロームだけれどこちらに夏の全景が。

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森の渓流で、まるで「野分のまたの日こそ」を見た。木が折れている。
清少納言とちがって、いとをかし、と趣きを味わえない痛ましさ。

これはおまけの芋煮会。この地は豚肉味噌味が主だけれど、わが家は牛肉醤油味で、山形流。〆はカレーうどんにする。
正調山形流儀じゃなくてご免。
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土のついた里芋と、出来上がった芋煮汁。
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これはほんとにおまけ。
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by NOONE-sei | 2006-11-09 23:51

71夜 紅葉狩り 参


夕焼け小焼け・・・と唄い出したら何の歌?
赤とんぼが群れなすさまを今年は見なかった。だから答えは、・・答えは、、、、なんだっけ。
ほら、お手々つないだら空に星が出るやつだ。

調べたらわかった。この歌。なんだ、そのままの題名じゃないか。


            夕焼け小焼け
                         詞  中村雨紅
                         曲  草川 信
 
         夕焼け小焼けで日が暮れて
         山のお寺の鐘がなる
         お手々つないで皆かえろ
         からすと一緒に帰りましょう

         こどもが帰った後からは
         円い大きなお月さま
         小鳥が夢を見る頃は
         空にはきらきら金の星


いい歌詞だなぁ。詩に品がある。からすはきっと一緒に帰ってはくれないと思うのだけれど。


もうひとつの夕焼け小焼けは、『赤とんぼ』。(三木露風作詞・山田耕筰作曲)
「おわれてみたのはいつの日か」を わたしは大きくなるまで
追われてみた、つまり追われるという経験をしてみましたという意味だと思っていた愚か者。
でもここに歌詞は載せない。だって、本当の歌詞はもの悲しくなるのだもの。

塾のちいさいさん達に、わたしと同じ勘違いをさせたくないので、毎年の秋になると、
「負われて見たのはいつの日か」、と書いてみせる。とんぼに追いかけられたのじゃなくて、
だれかにおんぶされてとんぼを見ているんだよ、、、とだけ話すことにしている。

ほんとはこんな意味。わたしの勝手な意訳なので、間違っていたら勘弁。

   おんぶされて、夕焼けの赤い空に飛ぶとんぼを見たのは、いつのことだったかな。
   桑の実を小さな籠に摘んだのは、まぼろしだったんだろうか。
   子守りのねえやは十五で嫁いでしまった。
   ふるさとのたよりも今は無い。
   それなのに、こうして大きくなって、あの日と同じものを見ている。
   ・・夕焼けの中、赤とんぼが竹竿の先にとまっている。

なんだか救われないような無常観を感じるのだけれど、ちがうか?


今夜は秋のいろいろを。

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公園の落ち葉。黄は不思議。赤に沿うて赤を盛り立てる。


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七色の実は不思議。きっと食べられないのだろうが、つまんでみたくなる。


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林檎は不思議。梨はとうに収穫されて秋を知らせたのに、こうしてたわわにじっと冬の収穫を待っている。


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秋の影は不思議。長くなったと思ったら、ついっと夕暮れる。
赤とんぼもからすもいないけれど、お手々つないで、吾妻山にもさよならして、一緒に帰ろう。
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by NOONE-sei | 2006-11-07 23:26

70夜 紅葉狩り 弐


枕草子(清少納言) 方丈記(鴨長明) 徒然草(吉田兼好)
古典の世界では、この三つが代表的な随筆だという。

源氏物語(紫式部)と枕草子ではどちらが好きか、などと思ったことはないか?
壮大な絵巻物の織りなす物語を読むか、日常の何気なさに普遍の真理をみるか、
などと言ったら難解でくらくらしてしまう。
むしろ、紫式部と清少納言のどちらが自分にぴったりするかと考えてみれば、
文体への嗜好でわかりやすい。

わたしは枕草子が好きだが、紅葉狩りにまつわるような秋のおはなしがなくて残念だ。
源氏物語には貴族の紅葉狩りが描かれているそうなのに。

今夜はつれづれに林を歩こう。

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松林の中は、桜並木とはまたちがう静けさがあって、常緑の中に赤や黄をみつけるとはっとする。

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光が林の中に差し込んで、葉の色が光る。

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カエデ類をほとんど見なかった林で赤い葉を見た。

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林の中には小さな川が流れていて、カエデの落ち葉を見つけた。

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葉は、風で水にはらりと落ちた。「ゆく河のながれはたえずして・・」とは、方丈記(鴨長明)。


これはおまけ
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林を抜けたら、試合を終えた野球部員が壁に。よじ登るというより、取りついているといった感じ。
少年は、悩み多き「物狂おしけれ」の世代。徒然草(吉田兼好)は、少年でもないのに「ものぐるほしけれ」。
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by NOONE-sei | 2006-11-05 02:41