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32夜 コドナになった羊


母だから大人でなきゃいけない、子だから子供らしくていいんだって、誰が決めた?
母が子に言ってはいけない言葉は数々ある。それはまるで倫理の世界のとりきめだ。
わたしは大人じゃないし子供でもない。・・コドナ?

「嫌い」
わに丸という動物が、群れの中で自分よりも弱そうな存在を作り上げ、羊に見立てること。
いわれのない迫害を受け続けた羊は皮を捨てることにした。

「死ね」
朝、いわれのない因をなすりつけられた羊は誇りがひどく傷ついたので、
存在を拒む言葉を口にしてみた。

わに丸は、さまざまな崩しの戦法でスケープゴードの居る平穏を手に入れようとしたけれど、
羊はもう羊ではないので、丸め込まれるふりをすることはやめてわに丸の餌の苺をばら撒き、
ひとりで町に出た。夜の映画館はひっそりときらきらしていた。
劇場ではレイトショウの映画が上映されており、それはいつもなら選ぶことの無い映画だった。

『GOAL!』
劇場に入ると、百半ば以上も席があるのに、観客は羊、ただ一頭だった。
夜の映画館を独り占めというのはすこし気味が悪い。
映画は、青年が貧困の中からチャンスを掴み取ってゆくサッカーの物語。
登場人物たちにあんまりさりげない愛があるので、羊はちょっと人間もいいかな、と思った。

「・・・」
次の朝、わに丸はいつものように羊を羊として扱った。
羊は、体温が下がるのを感じ、人間になったのだと思った。
わに丸はあてつける行動とともに、三泊四日の旅に出た。
人間になった羊は旅の無事を願う言葉を語らず、黙ってたたずんだ。

人間は大人と子供の二種類があって、それぞれが額に「おとな」や「こども」の紙を貼っている。
羊は自分に貼られた「母」という紙をまず食った。そうして次に、「おとな」という紙を。
額に紙のなくなった羊は、コドナになった。それを「わたし」と呼ぼう。

わたしは今朝、旅に出たわに丸の携帯電話にメールをした。
「闘う」

独りの羊は一頭
眠れぬ夜に数える羊なら一匹二匹・・・それは数が多いから

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by NOONE-sei | 2006-05-31 18:26

31夜 鶴は折れない


思春期の小生意気な年頃。
語彙数が増え、それを使ってみたくて妙にこねくりまわす、おかしな会話。
中学生の頃、回りは皆大人びていたので、
わたしは格言やら故事成語やらが入り混じった、やたらむずかしい言葉にかこまれていた。

口下手でも、耳だけは肥える。
本を読まないわたしがこうしてなんとかお話を書けるようになったのは、
中学時代の、口達者な回りのおかげかもしれない。

あんまり理屈っぽいことを「小理屈を語る」というが、
そんな会話をするいつも成績のよい男子に、活発で成績はまあまあの男子がひとこと、
「そんなしちめんどくさいことは、鶴を折れるようになってから言え!」と言った。
その時の「腑に落ちない」ならぬ「腑に落ちる」思いは強烈で、
それは、ものを見聞きするときの、いまだにわたしの大切な物差しになっている。

あたりまえのことをあたりまえにできるということは、とてもむずかしい。
できる、ということと、やったことがある、ということの間には大きな差があるように、
やったことがない、ということと、まったく知らない、ということの差ははてしない。

塾で小学生のちいさいさんに、折り紙で折々の季節や歳時で壁面を飾ってもらう。
・・といえば、まるで一緒に遊んでいるようだが、わたしは遊びようを知らない。
だから、こんなのを作ってくれと頼み、あとはおまかせ。
わたしはちいさいさんから教わることばかり。ちいさな手から繰り出される折り紙の数々、
ためいきがこぼれそうな見事な立体には敬服するばかり。

けれどここ二年ほど、おまかせできない子が続いている。
できると言ったものの実際には折り紙の経験がほとんどなかったり、
ハサミを紙に垂直に刃を当てられなかったり。やりたくないのではない、つまり、できないのだ。
今日は、朝顔を折ろうということになって、色や葉の形を調べ、蔓(つる)の巻き方を知った。
以前なら自分達で図鑑をめくり、頼まないのにわたしの嫌いなものまで調べてくれたが。

今日、塾で初めて折り紙をした。
・・そろそろ、一緒に鶴を折る日も近いかもしれないな。
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by NOONE-sei | 2006-05-30 03:28 | 新々百夜話 本日の塾(9)

30夜 僕は一番


男の子をヤロ コ と呼ぶとかわいい。
犬をシワ コ と呼ぶように、猫をアク コ と呼ぶように、
男の子が動物の仔のような気がしてくる。

脱皮して「人間」になるのは女の子の方が先だけれど、
動物としての「人間らしさ」は、もしかすると男の子に生まれたときから備わっていて、
本能のようなそれは、いかにも人間くさい。

塾の事務室にいたら、教室からお経が聞こえてきた。
それも、坊主の声明(しょうみょう)のように声が和になっている。

昨年の三年生、高校生になったばかりの卒塾生たちは、
いろいろな思い出やエピソードを残してくれたけれど、すこし線が細くて痛々しかった。
だから、久しく塾での出来事は、おはなしとして書くにはしのびなかった。
その次の代がいま三年生になり、上のつかえが外れて伸び伸びしている。
声は、三年女組のおかしなハーモニー。

一昨年の三年男組は、全員で英語を独自のカタカナ英語に直して読んでいた。
そのバイリンガルぶりは大真面目で、れっきとした勉学の姿だったので笑うに笑えず、
修正させるわけにもいかないほど、「この単語はこう発音する」という確固たる規則性があった。
・・その中のひとりの妹が兄直伝のお経、いや、カタカナ読みを皆に伝授したのだ。
一年ぶりに聞くお経は、こころなしか洗練されていた。

兄が同期の卒塾生数名と菓子の差し入れを持って顔を見せた。
妹にしたら本家の兄達に聞かれるのは気恥ずかしい。
兄達も分家のような現三年生に気を使って同席しなかったが、
心の内では「おれらの英語は最高だべ。」と思っていただろう。

王様にしていったのは、つまりはそれぞれの自慢話だ。
  「ハンドボール部は、実力的にはおれらの高校が県下一だべ。」
  「ウェイトリフティング部は、おれの重量級が県じゃおれだけだべ?
   んだからまっすぐ東北大会。全国制覇も夢じゃねーべな。」

スキマスイッチの歌に「全力少年」というのがあって、その中の『・・世界を開くのは僕だ!』
という歌詞が、大それていて大げさで、そこがなんとも好きなのだが、
このヤロ コ たちの熱くて暑苦しい語りは、歌そのものだ。
実際には挫折を知らない子たちじゃないし、悩むことの苦しさも知っている。
それでも語ってしまうこのヤロ コ たちの人間くささはなんだろう。

・・汗くささ?


百夜話 72夜 とつくにのことば


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ヤロ コ って何故、棒を持ちたがるんだろう。三人とも手に棒が。ひとりは左利きか?
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by NOONE-sei | 2006-05-27 03:11 | 新々百夜話 本日の塾(9)

29夜 浦島亀子


亀といえば、いつもは亀の子束子(たわし)が浮かぶのだが、今夜はちがう。
鶴は千年、亀は万年。・・万年って、「いつもいつも」という意味か。

ここ一週間ほどひどい風邪に悩まされ、外に出なかった。
思い返せば、病院をまるで脱走するように退院し、
母と桜を追ってあっちだこっちだとむちゃくちゃに動いたのが祟って、
父は退院直後に風邪をひき、病院で点滴をされた。

風邪は、誰かにうつすと治るとか。
父は母にうつし、母はその風邪を後生大事に抱えながらせっせと父と出掛けた。
あんまりふたりの鼻声が長引くので、言いたかないけど、、、と
外出を自粛するよう苦言を呈してみたのだが、彼らの行楽熱は引けない。
そうこうするうちに、わたしの喉(のど)が腫れてきた。
夫婦ふたり分の風邪を一手に引き受けたからたまらない。
喉の痛みから体の痛み、鼻水、咳とお決まりの循環の日数(ひかず)が長くかかった。

時間の長さとは主観的なものだったのか。
この一週間は、妙に長かった。そして妙に浮世から離れていた。
ふわふわと身だけが軽く気は沈み、わたしという門の内側と外側の時間の流れに違いがあった。

きのうは五月の爽やかさ。
山を見て驚いた。ずっと毎日見ていたはずの蒼い蒼い山が、みどりだった。
万年ぼんやりで気づかなかったとはいえ、いつのまに新緑になっていたんだろう?
折りしもきのうは安達太良の山開き。
今朝、父と母はさっさと身支度を整え、稲荷寿司を持って安達太良に行った。

山の変化に突然気づいたわたしは、稲荷の狐につままれた?
それとも、浦島太郎ならぬ、浦島亀子になって浮世に戻った?
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by NOONE-sei | 2006-05-22 18:51 | 新々百夜話 父のお話(8)

28夜 手帳の音


頭の中には手帳があって、
普段は忘れていることがふいに蘇るとき、かさっ、と手帳のめくれる音がする。
匂いが誰かのなにげない仕草を呼び込んだり、味がいつかの食卓を呼び起こしたり、
ひとにはそういう五感の手帳というものがあるかもしれない。

目・耳・鼻・舌・皮膚という感覚器は、それぞれ
光・振動と重力・気体・固体・温度と圧力、、、という刺激を受けとると
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、、、という感覚が生じる。
これが、感覚器のしくみであり、ヒトが持つ五つの感覚を五感という。

調べたら、五感はもとより体のなかにあるようなつもりでいたけれど、違った。
もとよりあるのは感覚器。刺激されてはじめて生じるものが感覚。
理科でいう「感覚」は、普段使っているニュアンスとすこし違和感があって面白い。
日常では、国語の「感覚」で物を言っていたんだろうか?人を「ヒト」と「ひと」。表記にも違いが。
では第六感とは、どちらの科目なんだろう。

五感を 「感覚器が受けとった刺激によって生じた感覚」、、と言ってしまうと、すこし味気ない。
「味気のある感覚」になるとしたら、それは記憶が付帯するからか。
すると、記憶とは「味気のある思い出」なんだろう。

先日子犬を触って、シワ コ の幼い頃の手触りや温度が触覚に蘇ったり、
26夜の「きどい」という言葉を目で読んで耳で聞いて、幼い頃の味覚が蘇ったり、
27夜の整髪料の匂いで、おじさんのさまざまなイメージが蘇ったり、
かさかさっと、なにか聴こえることってある。
実際に刺激を受けた感覚器とは別の感覚器まで動き出す。

ひとの脳にはやっぱり手帳が入っているのだ。
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by NOONE-sei | 2006-05-17 10:09

27夜 おじさんの匂い


今朝、来客があって、お茶を入れながら鼻がかゆくなった。
あぁそうだ、整髪料の匂い。おじさんの匂いだ。

どこかへでかけるのに背広を着た、父の姿は好きだけれど、
いつもは寝癖の髪を整髪料でなでつける、その匂いには困る。

中学生になったばかりのときには、前から二番目のちびだったから、
中学三年生の男子は皆おじさんに見えてこわかった。
先輩でさえこわいのに、同じクラスにはすでに声変わりしている男子もいて、
中学校という場所は、信じられないほどこわかった。

担任は、格好良かった。
めずらしいアンティック車に乗っていて、朝、遅刻しそうで駆けていると、ときどき乗せてくれた。
なにか生徒を諭さなければならないときは、「・・さびしい事です。」と言うのが口癖で、
太くて低くて、よく響く声だった。
姿は背が高く、いつもダブルの背広を着て、髪をオールバックになでつけているのだが、
不思議にあの整髪料の匂いがしなかった。
不思議で不思議で、匂いがないと、先生の枕は汚れないのだろうかと余計な心配をした。


数ヶ月前に病気でご主人を亡くした年長のお姉さまの所に、先日ご機嫌伺いに行った。
ずっとご亭主にかしづいて出世を陰から支える、古きよき婦女子の教育を受けた世代の女性。
その控えめな立ち居振る舞いはもとよりきれいだったが、
葬儀に参列したときに遠くから見た、そのひとのお辞儀の美しさに驚いた。

亡くなるまで、ご亭主の人格が崩れなかったことを聞いた。
無口で愛想がなくて、仕事ばかりでどこにも連れて行ってはもらえなかったけれど、
看病で一生分の手を握ったと聞いたときには、不覚にも涙がこぼれた。

手を合わせた仏壇の横に透明の袋があり、不思議に思って訊ねると、
「匂いなの。」開けて見せてくれた袋には、帽子が入っていた。
  「子供には仕事ばかりで思い出を作ってやれなかったから、罪滅ぼしに、
  孫のことはとてもかわいがったの。これは主人がかぶっていた帽子でね、
  孫たちはときどき寂しくなると袋を開けて匂いを嗅ぐの。
  『おじいちゃんの匂いだ』って。そしてすぐに袋の口を閉じちゃうのよ、
  『匂いが逃げちゃう』って。」

よくある整髪料、おじさんの匂い。
その子たちは困らずに、なつかしく嗅ぐのだろうな、おおきくなっても。
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by NOONE-sei | 2006-05-14 03:04

26夜 ゆく春くる夏


煩悩の憑き物を落とす鐘の音(ね)、ゆく年くる年。

五月。朝夕の肌寒さとひるべの薄暑さ。夏の初めの今をなんと名づけよう。
冬から春は、食が駆け足でやってきた。
日食や月食のおはなしじゃなくて、食卓のおはなし。

冬、雪の下の土は温かいから、室(むろ)を掘って葱や大根を埋めた。
白菜は凍みないよう、小屋の棚に積んでゴザをかぶせた。
白菜が尽きる頃、雪も融けて蕗のとうが顔を出す。
四月の春祭りにはつくしも顔を出す。むかし、土筆を「つくし」と読めなかった。

山からの吾妻おろしは冷たいから、帽子と手袋は欠かせない。
田んぼのあぜで、蓬(よもぎ)の若芽、空き地で浅葱(あさつき)、小川で芹。
農家の屋敷周りにはウコギの垣根があり、新芽のころはまだ棘が痛くない。
野の収穫に、早春の散歩はいそがしかった。

父はこの季節になると、どこかの沢から葉わさびやクレソンを摘んでくる。
時には蕨やトリノアシもおまけについてくる。
本当は山で、たらの芽やコシアブラなどなど、本格的に山菜採りをしたかったはずだが、
病み上がりだからと待ったをかけられて、今年はすこし不満な春だった。

けれど山の味覚は身近なところにもあって、じつは十分楽しめる。
柿や桑の新芽の天婦羅は美味いし、春の新芽はほとんどの植物が食せると聞いた。
初夏の候、まだ楽しめる味わいはあちこちにある。

皆ちいさいときには苦手なのに、おおきくなると恋しいという山菜。
体の毒を落とす薬と教えられたけれど、山菜の苦味も増すとえぐみになり、きどくなる。
本当は山菜のほうこそ毒ではないかと疑った。
きどい、とは方言か?

「きどい、きどい」と言いながら食べるうちに覚えた山の味。
いつか毒は、落ちるのではなく回るのではないかとこわかったはずだのに。


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冬の気温の低い時に、水をくぐらせて大根を干す。
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夜に凍り、日に干されて出来上がる凍み大根。乾物だから、戻して煮物などにする。

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キムチを作った。アミの塩辛のかわりに桜えびを入れる。全部混ぜて白菜漬けに挟み込むだけ。

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つくしの佃煮を作ろうと摘んだら、入れ物がなかったから手袋(ミトン)に入れて帰った。


おまけ 
 ミトン ロシアのアニメーションの紹介
 ミトン 音楽がかわいい。
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by NOONE-sei | 2006-05-12 02:54 | 新々百夜話 父のお話(8)

25夜 さくらの君


山桜が咲いていた。

花色が薄く、花びらが小ぶりで、手が加えられていない。
つつましやかに見えるのは天然の桜だからかと思っていた。

こんな話を聞いた。
ご亭主が奥方の目を見つめ、ぽつりとひとこと。
  「おまへは、やまざくらのようだ。」

山桜がどんな花か知っているか?
桜の花が散りはじめると葉桜になるものとおもうけれど、
山桜は葉と花が一緒にでるのだとか。
・・つまり葉(歯)がでている桜。

この話、王様には内緒だ。
・・わたしはふたつの前歯が大きい。


桜と山桜。ここにも似て非なるふたつの花、花の名しらずのわたしには、区別がつかない。
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          これは二輪草か?

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          この花はなんという名?だれかおしえてください。
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by NOONE-sei | 2006-05-07 00:57

24夜 桜の木の下 


燃える男の赤いトラクター。なんの歌だったっけ。
散歩に出たら、赤いトラクターが田んぼの中をくるくると動いていた。
もちろん、青いトラクターだっているけれど。
その横にカラスが寄ってきては、掘り返された土から出てくる虫のご相伴にあずかっていた。

お百姓さんは忙しい。田んぼは苗代掻き、すでに水の入った田んぼもある。
四月は桃の木の手入れ、十時と三時の一服には木の下で談笑する姿があった。
桃の花も盛りをすぎ、木には緑の葉が見えてきた。五月は田植えの準備だ。

今日は暖かくて、もう春は終わって初夏になるかと思うけれど、朝晩はストーブを焚く。
山には、これから咲こうとしている桜もある。
ある場所では春が終わり、ある場所ではこれから迎える春。

「お前、この爛漫と咲き乱れてゐる桜の木の下へ、
一つ一つ屍体が埋まってゐると想像してみるがいい。」
梶井基次郎は「桜の木の下には屍体が埋まってゐる!」と言ったけれど、
わたしは、梶井が言う「惨劇」のイメージを桜に重ねない。少なくとも春の間だけは。

数えきれぬほどの苗を植え、花見に客が集まる場所の桜は人工的だ。
かたや、山にぽつりと一本植えられた桜の場所は、日当たりよく、眺めもいい。
山の斜面には、よく墓がある。あの世も良い所であるようにと、山の一等地を墓にする。
そんな場所を選んで埋めてあげたくなるのもごく自然な心。そしてお供えみたいに桜を一本植えるのだ。
ご先祖様が眠る場所には桜が咲いて、ふもとからもよく見える。だから桜の場所は極楽浄土。

梶井が、桜は屍体から出る「水晶のやうな液体」を吸っていると書く背景は、「憂鬱」。
生きている実感が得られないことの裏返し。
胸を病み、まだ二十代の若い梶井が神も仏も払いのけた、孤独で屈折した意識。

古くは死は、西洋なら神の手に、東洋なら仏の手に委ねられた。
けれど梶井は自身の手で引き受けようとした。それが近代を代表する作家たる所以。
よるべのない生は辛かろう。

梶井の言う「桜」とは、わたしには古木のしだれ桜のことのように感じられる。
ああいった不気味な桜を 山の墓のそばではあまり見かけない。
自らの根幹を裂いてしまうかと思うほど一本の幹から垂れ下がった異様な枝々を見ると、
それは千手観音ではなく、何体もの幽霊の手に見えてしまうのだ。
手入れされ、支え木で生かされているけれど、引き受ける手が本当はあるだろうか。

昨年も今年も、意識してわざと山の桜は撮らなかった。
山の桜の下には墓があり、そこは聖域のようにわたしは思うから。

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丘の上から見た桃畑。左には屋敷森という防風林も見える。
 
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by NOONE-sei | 2006-05-03 17:47

23夜 「ガメラ」、怒ってもいいかな


わに丸の山岳部は、今年こそはと全国大会を目指している。
強くたくましく頼りがいのある女子は毎年出場しているが、
わに丸たち男子はいつも惜敗。顧問は男子を今度こそ連れてゆきたい。

甘い言葉に騙されるようにして入部したわに丸たちの学年は、男女合わせて十名以上いる。
それまで各学年にひとりふたりだったのに、山岳部員がこんなに多い年は奇跡だ。
わに丸たちの代から部員が多い分、先輩からの勧誘の甘い言葉も、ねずみ算で増える計算。
今では、この春に新入部員を迎えて三十名以上の大豊作、大所帯。

三月は極寒の安達太良、四月は雪の西吾妻合宿と安達太良、昨日は雪解けの吾妻連峰合宿。
先輩は一年生の装備も背負うから、とてもわたしでは持ち上げられないザックの重さ。
わに丸はぶつくさ「怒ってもいいかな。」そう言うけれど、自分も一年の時は世話になったはず。
そんなことより、重さで背が縮まなきゃいいけれど。

夜、山行の準備をするわに丸に付き合っていられず、わたしはころんと寝てしまった。
わに丸は、「母ちゃん、死んだ。使えねーなー。」と言いながら握り飯を握っていた。
そんな言葉に傷ついていたら、わに丸の母は務まらない。

・・この頃、わかってきた。この子は何かをするときの大義名分が必要なんだ。
わたしが「使えない」から、仕方なく自分でやる。
わたしが間に入らなくなったから、仕方なく王様とじかに会話をする。
本当は見つめているけれど、見つめないふりをするようになったわたし。
手近な誰か(わたし)のせいにしてはいるけれど、行動するようになったことをよしとしたい。

昨日はわに丸が山で留守だったので、鬼の居ぬ間に封切りの「ガメラ」を観た。
人間を丁寧に描いてガメラを観るその目線がよくて、金子修介監督作品は好きだったが、
今回の新しい監督はいただけなかった。
神聖な、神が宿っているかのようなステレオ・タイプの子供観は、まちがっていて、緩(ゆる)い。
大人を子供に敵対する存在として対比しなければ、そのピュアを描けないのだとしたら、貧しい。
同じく子供が主役なのだったら、「ジュブナイル」(2000年邦画)の子供たちは、
生き生きと狡猾で臆病で、勇敢でピュアだった。

「小さき勇者たち~ガメラ~」 ・・新生ガメラはうれしいけれど、
できすぎの子供には、わたしも怒ってもいいかな。


「ガメラ」の新しい映画(MYCOM PC WEBより)
「ジュブナイル」あらすじ
  HISTORY version1~6をクリックするとたのしい。
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by NOONE-sei | 2006-05-01 19:48