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12夜 さよならをもう一度


『十二夜』はシェイクスピアの恋愛喜劇。
双子の兄妹が海で嵐に遭い辿り着いた港で、周囲からの人ちがいから起こる騒動。
男装した双子の妹に、それと知らずに恋する姫、姫に恋する公爵、公爵に恋する妹、、、。
恋は縺(もつ)れるけれど、双子の兄が生きていたことでお話はうまくまとまり、めでたしめでたし。

日本の古典の世界にも、兄妹が入れ替わる『とりかへばや物語』が。
ある平安貴族が、性格の正反対の兄妹を「取り替えたいなあ」と嘆き、兄を「姫君」、妹を「若君」として育てる。
それぞれが性を偽りながら出世までするのだが、妹が恋をして密かに出産を、、、。
苦悩の末、やがて二人は周囲に悟られぬよう互いの立場を入れ替えて、めでたしめでたし。

男性と女性が入れ替わるという非現実的な設定には、奇妙な面白さがある。
男装の麗人は、凛として前向きな、擬似男性というあこがれの対象のイメージがあるが、
女装の麗人(?)には、ちょっとたじろぐ。擬似女性といえば確かにそうなのだが、
姿よりも会話の妙味で、どこか人の等身大を引き出す天性のものがあって、
自分の愚痴を肴(もしくは餌)に、人から思わぬ本音を釣り上げながら不快感を与えない。

女装というと、ずいぶん昔観た学生演劇で『ハメルンの鼠』(作・唐十郎)を思い出す。
そのときの女装した登場人物には悲哀や可笑し味(おかしみ)があった。
そのせいか、以後、ニューハーフと呼ばれる女性以上に美しい男性を目にするようになっても、
やっぱり『ハメルンの鼠』を思い出す。

中世ヨーロッパの『ハーメルンの笛吹き男』はこんなお話。
ネズミに悩まされていた村ハーメルンに、鼠捕りと称する男がやって来た。
村は男にネズミ退治を頼み、報酬を約束した。男の笛の音にネズミの群れは惹き付けられ、
そのまま男は川に向かい、ついて行ったネズミを残さず溺れさせた。
ネズミが退治されたのに、ハーメルンの人々は約束を破り、報酬を支払わなかった。
笛吹き男は黙ってハーメルンを出たが、やがて戻って来て、再び笛を吹き、
子供達を村から連れ去った。子供たちは笛に合わせて踊りながらついて行ったという。
・・めでたしめでたしじゃない。

この『ハーメルンの笛吹き男』を下敷きに書かれた戯曲『ハメルンの鼠』では、
底辺の人々を追い払うために雇われた男が、女装して一人の女に近づく。
切なく懸命に不器用に生きる女に、好意を持つほどに本当のことが言えない男。
やがては雇い主に追い詰められ、女には偽りが露見する。
けれど、裏切りを決意して男は女を連れて逃げようとする。
ゆく手には、ちっぽけな希望が待つのかちいさな未来があるのか。
越えるべき果てには、大きな河が横たわっているが、それでも渡ろうとするふたり。
・・やっぱりめでたしめでたしじゃない。

越えるべき困難の象徴に、河を描くのは唐だけではない。清水邦夫の戯曲もそうだったように思う。
何かに阻まれ、傷だらけで息も絶え絶えになりながら、いやすでに先には死しかないのに、
それでも見せる、新天地を目指すカタルシス。
それまで外界とは布一枚で隔てた舞台だったのに、最後に後ろのテントが一気に開いて、
お芝居事と、現実の世界が突然出遭わされる唐の演出。
蜷川幸雄の演出で泉鏡花を観た時にも、テントではなく立派な劇場の後ろの壁が開いて、
唐とまったく同じ演出を観て、出処(でどころ)は同じなのだと思った。
蜷川というと、シェイクスピアや心中物というイメージがあるけれど、
蜷川が、劇団という枠を超えて芝居を初上演したときに戯曲を提供したのが唐だったという。
時代性もあったのだろう、当時テントの公演が多かったけれど、蜷川は大きな劇場で演出した。
出処、出発点には、はなむけのように贈られた数作の、蜷川のための戯曲がある。

誰かのための、というと、劇団「第七病棟」がある。
唐作品の蜷川演出『盲導犬』初演で石橋蓮司と緑魔子が、共演をきっかけに旗揚げ。
初演が、前述の唐作品『ハメルンの鼠』。
わたしはまだ小娘だったので、この初演どころか芝居も知らず、ぼんやり暮らしていた。

この戯曲『ハメルンの鼠』は、ふたりのために書かれたものだと思う。
劇中、女になりすました男が、男をすっかり女だと思っている女を励ます場面がある。
女が好きな人にふられた後だったのか、ふられないための指南だったのか、
一度しか観ていないので記憶が曖昧なのだけれど、
さよならをもう一度という映画で、アヌーク・エーメが歌うのだという。
 「ららら~ ららら~ ららら~ ららら~」
もう一度、もう一度、ってせがんだら、、、さよならなんて、永遠になくなる ・・・
いかつい石橋蓮司が、消えてなくなりそうな緑魔子に懸命に語るさまが、映像で浮かぶ。
・・「さよならをもう一度」、その映画にアヌーク・エーメは出演していないんじゃないか?

もう一度、もう一度「第七病棟」の『ハメルンの鼠』を観ることができたなら、
本当の台詞で確かめられるのに。


おまけ 唐十郎教授
定年で横浜国立大学を退職する唐の最終講義、こちらも「さよならをもう一度」か
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by NOONE-sei | 2006-03-30 02:20 | 趣味の書庫話(→タグへ)

11夜 いい夜なんだから


むかしに比べたら、電話がかかってくることがめっきりと減った。
だから油断していた。
長電話の沼に、久しぶりに沈められた。

受話器を取った時のひとこえで、長く話したがっていることを感じる。
その晩のひとりは、二時間だった。
翌日のひとりは、二時間半。

わたしを心配していたという年長のふたり。
立て続けだったのはまったくの偶然。

ひとがひとを想い、理解しようとするうちに、『理解しようとしているワタシを理解せよ』に
すり替わってゆくことはないか?
会話を「詰め将棋」のように詰めているうちに、『心配掛けて御免なさい、大丈夫だから』と
嘘を言わせてゆくことはないか?
揺らぎなく息災でいるかと確認しているうちに、『揺らぎがあってこそのセイ』と
矛盾した確認に変わってゆくことはないか?
・・気になっていたわたしの近況を知ることが、いつの間に理解の達成感に変わったんだろう。

ふたりが「こうあっていて欲しい」と願っているセイは、ここにはいない。
そのセイは、会話で理解し合うに充分な語彙を持っている。
誰とも共感し合わない自我を持っている。
わがままな脳に翻弄されて揺らいでいる。
・・ふたりが願うセイは幻想だ。

ここにいるのは、ぼんやりして口下手な、ただの、セイ。
思うのはこんなこと。
・・11夜、いい夢であるように。いい夜なんだから。
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by NOONE-sei | 2006-03-26 01:45

10夜 ずっとともだち


ふたり。
ふたりはいつも見つめ合ってはくすくすと笑う。
大親友、それは不思議なことじゃない。
不思議なのは、ふたりでなにかを決めるのを徹底して避けること。

最初は互いにどうぞどうぞと譲り合い。
次に自分の考えを伏せて相手の意見を引き出す。
その次に、提案したのはそっちだからね、という念押し。
そのまた次は、そうはさせじと押し問答。
いよいよ不仲になっては困るので、そもそも何故これを決めねばならないか、とふりだしに戻る。
それでも決めねばならないと観念して、最後は選択肢を紙に書いてくじびき。
これで責任はおあいこだ。

そばで見ていると、丁丁発止、駆け引きは張り詰めている。
いつ足元をすくわれるかと、気が抜けない。
それでも引き合うように一緒にいないではいられない、共棲し合うふたり。
だから、ふたりの間は閉じていて、おそらくは、目も閉じていて、互いしか見えない。

この不思議なふたりの十歳の話を王様にしたら、
「生まれた時から女だからね。おんなおんなしいもんだよ。」
意味がわからない。めめしい?それともおんならしい?
・・『ともだち』という玉手箱、何が出るのか薄寒くて聞けない。
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by NOONE-sei | 2006-03-24 18:52 | 新々百夜話 本日の塾(9)

9夜 鋳物の灯り


骨董屋で店番をしていた頃、鋳物が届くことがあった。
住所を見るとそれは遠く北陸からなのだが、着払いなので、
店の金を預かっていないわたしは、運送会社に取り置きしてもらうのが心苦しかった。

店主は皿や壺を風呂敷に包んで上得意客の家を訪ねる、昔ながらの商売で、
多少客の景気が左前の時でも、支払いを待ちながら息の長いつきあいをした。
少し落ち目の時ほど、その客から離れずにつきあえば、
持ち直す粘り強さのある客は必ず、滞っていた支払いだけでなく、
それ以上の買い物をしてくれるようになるらしかった。

今は傾いているけれど、この壺を楽に買え、それ以上の買い物ができるように
再びなるんだ、という励みとして、客はわざわざ支払えない額の骨董品を買い、
今はまだ支払えないことをわかっていながら店主は品物を置いてきたのだろう。
だから、店の内情はときに火の車だった。

売掛が多い時ほど店主は風呂敷を持って商売に出たし、
そんな実情を知っていたわたしは、いつ鋳物を引き取れるか答えに窮した。
骨董屋なのに、骨董品でない鋳物が何故届くのか、わたしには不思議だった。
おそらく、左前の客を抱えている時には、少し羽振りのいい客のところで、
調度品だとか庭の明かりだとかをしつらえる相談にも乗ったんだろう。
金が出来るとそれを持って運送屋から品物を受け取り、また商売に行ってしまうので、
なんの鋳物だったのか、わたしは中身を見たことがない。

先日、山形と宮城の県境を走る、蔵王連峰に行った。
途中、楢下宿の蒟蒻番所という料理屋に寄った。
昔の佇(たたず)まいが残る木造の建物に、鋳物でできたものの幾つかを見た。
こんなものも鋳物でできているんだ、と眺め、ふとあのときの骨董屋で受け取り損ねた
鋳物を見ておけば良かったと思った。

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鋳物の灯りを見たら、骨董屋を思い出した。

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ここで隣り合わせた客のおばあちゃんが、茶が運ばれて来たら「おしょうしな」と言った。
ありがとう、という意味だろうか。

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離れへの道が素敵。

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蔵王は雪。この晩は雪が積もった。
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by NOONE-sei | 2006-03-23 00:18

8夜 夜更けのふたくち女


子どもに話して聞かせるお話。
子どもは怖い話が好きだ。

「黒塚」という能にも謡われる、安達が原の鬼婆伝説。
山姥から逃れるのに、身代わりになって助けてもらう「三枚のお札」。
食を摂らないから家計に都合がいいと娶(めと)った嫁は、
主人の留守に髪の中に隠したもうひとつの口で握り飯をむさぼり食う、鬼婆「二口女」。
女の鬼は皆怖い。

男の鬼も女の鬼も、やっつけられてしまうことに違いはないが、
恐ろしい存在としての男の鬼は、成敗されてめでたしめでたし。
わたしが知っている男の鬼で唯一悲哀があるのは、浜田広介(ひろすけ)の「泣いた赤鬼」。
一方、女の鬼は、子を失くして気がふれて鬼になったとか、その背景が悲しい。
鬼子母神という、人ならぬものとして神や仏の手で昇華してやらねばならぬほど、
母の情愛とは濃くて強(こわ)くて怖いもの?

子ども向けのお話には省かれているけれど、「二口女」の結末も知ると怖い。
鬼になった女房は、自分で作らせた桶の中に亭主を押し込めると、
背負って山奥深く連れ去って行くのだそうだ。
飯も食わずに働き者でよく尽くしたはずの、女房のもう一つの姿を見た亭主は、
女房を人間らしい存在として扱わなかった罰を受けたんだろうか。

親が子にお話を聞かせるのは、絵に描いたような幸せだ。
絵本の読み聞かせや紙芝居もいいけれど、素話(すばなし)。
何も見ないで話して聞かせる物語が、子どものいちばんのご馳走なんだという。

わに丸が寝入るまで、わたしは毎晩絵本を読んで聞かせた。
けれど、素話は苦手だった。なにしろ、わたしの素話ときたらただの思いつきで、
「白いお坊さんと黒いお坊さんが、ふたりで高くて凍った山に登りました、、、」
しかも途中で話が続かなくなる。わに丸はつまらなそうにあくびをしながら寝てしまうのだ。
 王様は、わに丸が寝る時間にはほとんど帰ってこれなかったけれど、
それでもたまに、添い寝をしてやれるときがあって、そんな時、素話は王様にかなわない。
わに丸はにこにこして眠る。それはとてもとても小さかったころのこと。

とうの昔に寝る前の読み聞かせはおしまい。
けれどお話みたいに、わたしはもしかすると二口女だ。怖くないけど。
普段は、スナック菓子をほとんど食べないので買い置きもあまりしない我が家。
三ヶ月(みつき)にいっぺんくらい、夜更けに、わたしは憑かれたように一気に食うことがある。
一袋を食えば治まる、理由もわからない。
 ・・これはなにかの発作だろうか?
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by NOONE-sei | 2006-03-20 19:35 | 趣味の書庫話(→タグへ)

7夜 お呼びがかかる


七は幸運の数字。
ちょっぴりしあわせになりたくて髪を切りに行った。

わたしはつむじが三つある。
むかし、つむじの数は気の強さに比例すると言われた。
普通は幾つくらいなのだろう。

聞いてみた。
美容師さんはわたしを気づかってか、普通については答えず、普通でないことを答えた。
最近、ひとつもつむじのない人の髪を切ったこと。
つむじが七つもある人がいたこと。幸いそれは男性だったので、
女性ほどは髪の手入れに困らないだろうが、今までのつむじ最多賞だったこと。

つむじの役割はなんだろう。
つむじが何故あるのか、美容師さんは不思議でならず、聞いたり調べたりしたという。
雨・風・埃(ほこり)がかからないように、保護すべき頭に毛の流れをつくるという理由は、
それらしく聞こえるが弱いと思っている、とも。
体中に毛がある動物なら、体中につむじがあることになるのだから。

おしゃべり上手でないこの美容師さんの不思議話は楽しかった。

ところで、髪型は、ボブというすこしおかっぱ風にお願いしたのだけれど、
仕上がったのは、どう見ても現在公開中の映画、「イーオン・フラックス」だ。
・・これは、観に来いと映画が呼んでいる?
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by NOONE-sei | 2006-03-17 16:23

6夜 たまらんのでちぅ


たまらなく好きな子どものお顔、それは歯抜け。
前歯のないお顔で笑う子どもは可愛い。
泣きべそのお顔も可愛い。それが歯抜けの泣き顔なら、なお可愛い。
泣き始める我慢の顔が見たくて、子どもをわざと泣かせたことがある。
きっと今ごろは、その子も立派な大人になっただろうから、許して頂戴。

たまらなく好きな動物の顔、それはへちゃむくれ。
緩んでたるんで、つぶれてしかめて、おかしな顔であればあるほどたまらない。
眼など、ヤギかヒツジのように横についていてほしい。
そして、あさっての方を見ていたり、つむっていたり、視線をゆがめていてほしい。
鼻から下、縦に刻んだ線のある上唇を引っ張ったり、ちぅ(chu)したりしてみたい。

王様には、趣味の世界だと呆れられるのだが、仕方がない。
無意識に近いのだ。気がつくと吸い寄せられている。
パソコンを見ていると、液晶画面に、、、指が。  
ぴと、と触ると、画面が揺らいで鼻の下が動く。
くしゃみでもしてくれないかな、画面の中の動物。

初めは全く気づかなかった。
ごく当たり前に可愛らしく撮れている子どもや動物の写真に、さほど食指が動かないことに。
初めから自分の趣味嗜好を把握できている人は冷静だ。
人の趣味とは、指摘されて気づくところから始まったりしないか?

新百夜話 64夜 ハニー・ヘイス
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by NOONE-sei | 2006-03-15 00:34

5夜 勤労には感謝


わに丸が初アルバイト。目出度い。
なにが目出度いって、地球も宇宙も自分の為に回っているという勘違い男は、
思い通りにゆかない経験をいっぱい重ねたほうがいい。
ガソリンスタンドは、わに丸にぴったりだ。
オイルで指を真っ黒にして帰るわに丸に、がんばれがんばれ、と内心思う。

でもやっぱりわに丸って、勘違い男だ。
朝、自室のストーブのタンクを持って下りてきたのはわかっていたのだが、
見て見ぬふりをしてそのままにしておいた。
夜、帰ると、風呂が沸いていない、灯油を補充していない、云々。
  「なんにもやってねーな。」
どかっと座って、まるで「メシ」とでもいうような、いつもの何様ぶりさえどうかと思うのに、
やってない?なにも?  ・・なにをだ?

神経が確実に一本切れた。
  「・・それ、間違ってる。」と、わたし。
  「よくいるよ、仕事から帰ると、えらそうに『フロ、メシ』っていう奴。
  でもそれ、おかしくないか?まして、わたしはおまえの召使いじゃない。」
言い終わらないうちに、なし崩しの煙に巻くような言葉をごちゃごちゃっとかぶせられた。
ハイハイ、△○▽◇☆・・・鼻歌でごまかされる。
精一杯言葉にしてはみたものの、わたしはやっぱりしゃべるのが下手だ。

働くということは尊い。けれど、こづかいが稼ぎたいわに丸には働くのは当然のことだ。
勤労感謝、
勤めに対して労(ねぎら)いはするが、感じ入って謝を述べはしないぞ。
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by NOONE-sei | 2006-03-14 00:14

4夜 あわやあわあわ


犬のシワ コ はアザラシに似ている。見つめ合うとなお似ている。
走ると馬に似ている。わに丸は鞍をつけて乗るのが夢だったのだという。
わたしも小さくなって、シワ コ に乗りたい。

普段のおもちゃは畳の縁(へり)。おそろしく長持ちする。
あんまり古い物を飽きずに遊ぶので、たまには贅沢させてやろうと、新しい物を作ってやった。
手拭いに餌を数粒くるんで結ぶと、いい匂いに夢中になって、結び目をほどくという仕掛け。
出てきた餌を食べたら、くわえて振り回して遊ぶ。糸がほつれたら取り上げておしまい。
手拭いは、大きいし滑りが悪いから、飲み込めない。・・いつもなら。

ところが今回は失敗した。
ほつれた糸を飲んだらいけないと、わに丸の小さいときの下着を切って、
手拭いと同様の物を作ったつもりだったのに、、、、、小さかった。
ほつれないかわりに、唾液で滑りがよくなって、、、、、飲んだ。

ない、と気がついて、医者に連れて行って吐かせたのは随分時間も過ぎてから。
が、出てこない。医者は手術か期限付きで様子を見るか、と言う。
排泄するかもしれないからという望みは、心情的にはわかるが、シワ コ は小さい。
詰まったら始まる臓器の壊死、胃から内視鏡で引っぱり出す際のダメージ、腸は弱く、食道はもっと弱く、
一方、胃は強く回復が速い。胃にとどまっているうちなら手術してもリスクが小さい、と説明を受ける。

一年前の脳梗塞から生還して、無事に過ごせていることを喜んでくれている医者が
一番いい方法を提案しているのは十分わかる。
わかるが、希望を捨てられずに、随時報告を条件に、一週間の猶予をもらった。
しかし変化なしの一週間後、布は撮影では写りにくいので、丁寧な検査となった。
医者は手術だという。・・胃の底に布がへばりついていた。
「もう一回だけ、だめでもともと、吐かせてくれませんか。」粘る王様とわたし。
アザラシが魚を飲むのは頭から。尾から飲むとウロコが食道に引っかかって滑らない。
「布がはがれて食道から出る向きになるように、水をたくさん飲ませて体を転がして、、、一回だけ。」

水を飲ませ、吐寫を促す薬を注射し、滑りが良くなるようオキシフルを薄めて口から飲ませ、
待ったが吐かない。我慢をするシワ コ は意地っ張りだ。
しまいに、うろうろして自分の首に引き綱がからまり、苦しくなってあわあわになった。
泡と一緒に布が出た。出たのが奇跡のような大きさだった。
 医者に、小さな犬が、げんこつのような大きさの木彫りのフクロウを飲んだ話を聞いた。
吐き出せないものを何故飲むか、それは、『飲む気満々』だったからとしか考えられない、と。

無事に済んで医者に喜んでもらい、後始末をし、礼を言い、反省の言葉をたっぷり述べ、
奇跡のように手術を免れて、人も犬も疲れきって帰る車の中。王様が言った。
「シワ コ も『飲む気満々』、先生(医者)も『切る気満々』だったんだよなぁ、きっと。」

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飲む前のシワ コ 。上唇に擦り傷があるのは、地面を『掘る気満々』だったんだろう、きっと。
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by NOONE-sei | 2006-03-12 03:26

3夜 王女さまと女王さま


桃の節句の少し前に観たふたつの映画は、「ナルニア国物語 第一章」と「ロバと王女」。
2夜で約束した、女の人のお話をしよう。次の夜に、、、だったからね。

女の子のお節句だから、銀幕の、素敵な女の人に会いたかった。
映画を観る前から、ふたりの女優さんがずっと気になっていた。
どちらも、髪は金髪なのに、見る角度によっては銀に見え、
唇が薄く、顔は陶器のような雰囲気なのが共通項。
                    *
ひとりはティルダ・スウィントン、「ナルニア・・」の魔女。
けれど、魔女というよりも、雪の女王と呼びたくなる。白い衣装の印象が強いからだ。
映画「コンスタンティン」で彼女を観たときには、性別を超えた美しい人だと思った。
あの世もこの世も、人も人でない者も、視えながら見て見ぬふりをし、
時には悪魔払いもやるダークな探偵稼業の主人公、コンスタンティンを
終(しま)いには、神と悪魔が人間の魂の奪い合いをするゲームに引きずりこむ堕天使が、彼女。
登場はメンズ仕立ての黒いスーツ、次が白い羽と身にぴったりした生成りの衣装。
男でも女でもない中性を演じるために、何かを巻いたのだろう、胸のふくらみをなくしていた。

「コンスタンティン」と「ナルニア・・」、
彼女はどちらの映画でも悪役だけれど、顔立ちは端正で悪女顔ではない。
むしろ、その瞳には清潔感があり、眼差しはまっすぐだ。
そんな美しい彼女が、コンスタンティンをこれでもかといたぶり、
そして最後には、羽をもがれて体中傷だらけになる。
闘いが似合わぬような顔立ちなのに、「ナルニア・・」でも剣を振りかざして闘う。
聞けば、身長が180センチメートルもあるのだとか。そして四十代という年齢に驚いた。
・・ティルダ・スウィントン。
のっぺりとした肌化粧と長い髪の「ナルニア・・」よりも、
わたしは「コンスタンティン」のほうが、中性のような彼女らしかったような気がする。
                     *
さて、対照的なもうひとりはカトリーヌ・ドヌーヴ、「ロバと王女」のお姫様。
ジャック・ドゥミ監督没後十五年企画で、銀幕に蘇った。
本当は、お姫さまというよりも、王女と呼ぶのが相応しいのだろう、美しさには凄みさえある。
印象的な長い髪、なにより額の生え際が美しく、前髪を上げている女の人は知的に見える。
ロジェ・バデム監督と付き合った女優は皆、髪を金に染めるのだとか。
この映画に出演したときには二十七歳、彼女には結婚せずに一児がいた。

なぜこんな艶(あで)やかな女の人がお姫様?
わたしのお姫様のイメージは、こんなに成熟した女性じゃない。
この映画を初めて観た頃のわたしは、まだ小娘すぎて奇異な感覚だけが意識下に残った。
ドゥミ監督「シェルブールの雨傘」も、清純な恋愛映画なのに、彼女に違和感を感じた。
大きくなった今、再び同じ映画を観て、話の筋はシンデレラに似ているし、
映画もそれを意識して作られているけれど、彼女はシンデレラとは違うのだと思った。
シンデレラは善良で、運命を受け入れ、良き魔法使いが幸せへと導く、受け身だ。
映画「ロバと王女」のお姫様は、一見運命に翻弄されるように見えながら、
自らの意思と知恵で恋のかけひきをし、幸せを手に入れる。しかも妖精までもが。
決定的な違いは、自分の美をよく知っており、美への執着があるということ。
エレガントなフランス映画、お姫様とドヌーヴは重なる。

大きくなってから、トリュフォー監督「終電車」のドヌーヴを観た時に、
しなやかに強く、聖と魔を併せ持つ稀有な女優さんだと思った。
ほんのわずかに三白眼の瞳は意味深長で、女の人以外の何ものでもない。
・・カトリーヌ・ドヌーヴ。
ドゥミの遊びに満ちた映画「ロバと王女」は、彼女でなければ支えられない。

                  *   *   *
これは、あくまでも私感なのだけれど、
ジャック・ドゥミ監督、一筋縄ではゆかない。
ともすれば怪奇幻想の原作をするりとかわし、色の狭間で豪奢に遊ぶ。
白いお城の中庭でオルガンを奏でる、青いドレスのお姫様の周りには、白い孔雀鳩が遊び、
美しいお妃の亡骸は、透明な円球の棺に横たえられ、白い雪の中を青い従者に運ばれる。
赤い国の王様の顎鬚には、キュートなとりどりの色の小花が散りばめてあり、
馬車の扉には蝶が、白いヘリコプターの扉には樹下の猫が描かれている。

原作者ペローは、ギリシャ・ローマ古典至上主義的な文壇を揶揄したとか。
映画の中で、女中頭がヒキガエルを口から吐き出しながら言う台詞、
「もうそんな御伽噺の時代じゃねえです」、もしやこれはペローへのオマージュか?
シンデレラの物語を連想させておきながら、実はずっとしたたかな女の人たちを描き、
ペローの皮肉屋ぶりをすっぱり切って、サイケデリックな映像を被せる自由さは?
もとよりペローには、物語で子供の夢を育む、という考えはなかったようだから、
ドゥミがどう料理して魔法をかけようが、原作は損なわれることがないのかもしれない。
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by NOONE-sei | 2006-03-09 13:18