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75夜 散歩


見つめ合えるようになるまで、もうすこし時が欲しかったのに、
今日一日で、犬の右の目の反応が時間を追うごとに落ちている。
明日の朝にはおそらく光を失っている。

今日のうちにできることを王様とわに丸とわたしで手分けしてやる。
わずかに光を感じるうちにやっておくことがたくさんある。
生活の場を整え、段差を無くし、勘で歩くための補助をわたしたちも学ぶ。

突然の理不尽さに、ともすれば胸がねじれる。気を張っていないと叫びたくなる。
眼だけでなく、耳の聴こえが落ち、口の機能も落ちた急激な変化に犬は混乱している。
しかしわたしたちは淡々と受け止めることに力を尽くしたい。
「なぜ?」 ・・・そうは言わないことにしたのだ。

夕暮れに、犬が門の外に行きたがった。
塀にからだを沿わせ、ときどきくるりとまわりながらよろよろと歩く。
わに丸が引き綱をひき、三人と一匹。
たいせつなたいせつな散歩。

王様が言った。
「がんばれ野生!」
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by NOONE-sei | 2005-02-27 22:23

74夜 見つめ合おう


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ゴジラを見つめている。
このあとかじった。ついこの間のこと。

ゴジラは声で呼ばないけれど、
わたしとは、呼ぶ声に気づいて見つめ合えるようになろう。

今は360度くるりと回ってから歩き出し、それでもあちこちにぶつかっているけれど、
もう片方の目が見えているうちに、
気配とからだをなじませていこう。

どうしたらいいのか、知恵と工夫は
わたしもぶつかりながら考えることにしよう。
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by NOONE-sei | 2005-02-27 09:36

73夜 犬の涙


昨日から様子のおかしかった犬が、今日、片目から涙をながした。

涙をこぼしたその眼はもう見えていない。
様子を見ようと医者も家族も言ったけれど、わたしにはどうにも胸騒ぎがあって、
連れて行ったらすでに光を失っていた。

出目金魚になっている、と何度も言ったのに誰も気づかない。
人間だったらその痛みは三本の指にはいるだろうと医者が言う、緑内障だった。
人も医者も気づかないくらい早くに見つけてやれたから、犬は痛みを受けつづけなくて済んだのだと思いたい。

治療を受け、もとの黒目に戻った左目。
見えない眼で何を見、映らない瞳に何を映しているんだろう。

突然すぎてわたしも涙がとまらない。
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by NOONE-sei | 2005-02-26 01:23

72夜 とつくにのことば


マイ モザヘラ ウォルクス エベルダイ。
シー ゴエズ トゥー テヘ オフィフィエス トダーーーイ。

ちいさな塾に自転車で通ってきた円卓の子供たち、中学三年生。
推薦で高校に合格した子たちは今日で卒塾。
これから本試験に臨む子たちは、もうひとがんばりしてから卒塾。

三年間、彼らはいろんな顔を見せてくれた。
卒塾はめでたいことなのだがすこしさみしい。
たくさんのエピソードもすぐ側(かたわら)にあって、
それらはまださみしさの近くにありすぎて、文章に置き換えられない。

でも今夜は72夜だからひとつだけ。なに?ということで。
まるで外國(とつくに)のことば。

ともすれば気持ちが不安定になる受験生たちの、ペースメーカー的存在だったカズ君。
受験勉強のための英語を独自の規則性でカタカナ読みに換える。
そして英語の時間はひとりひとりに英語の名前までつけて呼ぶ。
morningはモロニングと全員に言わせ、自分のことは三年間ジミーと呼ばせた。
これがふざけているわけではなく、カズ君は大真面目なのだ。
その真面目さに茶々を入れる子はいつしかひとりもいなくなった。

My mother works everyday.
She goes to the office today.

おかげで、というべきか。
今年の中学三年生たちは全員、不思議なバイリンガルだ。
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by NOONE-sei | 2005-02-25 00:59 | 百夜話 本日の塾(9)

71夜 花咲か爺


梅も桃も桜もまだ遠い。
この地は四月半ばに桃源郷になる。
順々にではなく、花という花が一斉に咲く。

梅桃桜を春の象徴のように三つの春というのだが、
連翹(れんぎょう)の黄がアクセントになってこれも美しい。
そのあとの林檎や梨の白も美しく、特に林檎の果樹畑の道を通るときには、
わたしはそっとその道を林檎街道と名づけて楽しんでいた。
小道の両側に並ぶ林檎の木の枝ぶりには、強い美しさがある。

春の梅も桜もいいけれど、桃の花がいい。
桃の果樹農家が土地を空きにしないためなのか、桃源郷にはところどころ、濃い桃色が見える。
ピンクではなくクリムゾンレーキを薄めたような色。
薄紅の、桃の節句に飾る桃の花ではなく、いけばなに使われることが多いとか。
果実のためでなく花のために栽培される花。
遠くから見るその花の群は、空気まで甘い。


退院した父が日々元気を取り戻している。
頂いたお見舞いのお返しに客間に積んであった快気祝いの包みは、ひとつ残らず今日で届け終えた。
赤飯をいっしょにつけて届けるという予定だったが、それぞれの先様(さきさま)の都合を考え、
赤飯より多少は日持ちする紅白の饅頭をつけた。
 余談だが、お見舞いと一緒にバナナを一箱つけてくれた人は左官職人。200本あまりのバナナだ。
父もそうだが、職人の考えることは皆、常識を越えているかもしれない。

せいせいしたのだろうか。
それとも天気が良かったからだろうか。
父はまた脚立にのぼった。 (また、、、だ。)
今度は父自慢の松、「カドマツ」ではない。

脚立にのぼるという父をこれまで何度も止めて、
退院してからも数度にわたって、松にかぶった雪をわたしは払った。
小枝を数本折ったことは、口が裂けても言えない。
「カドマツ」め。
これが人で父の弟子か舎弟なら、とっくにわたしはイビリ出しているにちがいない。

朝夕の寒暖の差で、屋根に積もった雪が昼間にゆるみ、夜は氷の塊になって滑り落ちる。
父の建てた数奇屋造りのこの家は、玄関の戸の手前にもうひとつくぐり戸があり、
細かい細工の建具で、屋根は銅で葺いてある。
くぐり戸と玄関の間をつないでいた雨除けの簡便なプラスチックの屋根板に氷の塊で穴があいた。
わたしは脚立にのぼるのを止められず、父は今日その補修をしたのだった。

角材やら必要な道具を持って自慢の屋根にのぼり、ものの15分。
腕は落ちないが屋根から落ちたら困るところ。何事もなかったから良かったようなものの。

まだ、花にはすこし遠い春。
それまでに、父はあと何回脚立にのぼるんだろう、花咲か爺のように。
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by NOONE-sei | 2005-02-22 23:22 | 百夜話 父のお話(19)

70夜 時計サワギ


アリスはウサギを追って穴に転げてしまった。
ウサギが持っていたのは懐中時計。

わたしは騒ぎを起こすとは知らずにごみ箱に捨ててしまった。
騒ぎのもとは腕時計。

今年、新しい暦になったときに、時計を付け替えた。
新しい時計になったら古い時計の電池が切れた。
新しい時間がやってくるのをきっと待っていたのだと思った、少なくともわたしにはそう思えた。

人前に出るのは得意でないにもかかわらず、故あって人前に出るという機会が二年続いた。
懸命に行動しても手際が悪く、内心には焦りや緊張があるのだが、なかなか表情に出なくて伝わりにくい。
パーソナルなわたしとは真逆のものが、人から見られる印象のようだった。

『約束』とは契約だ。
守りたくない天邪鬼を返上して、誠実な『約束』を自分に戒めとして与えるために、
わたしは人前に出るときに時計をした。
へそ曲がりで天邪鬼のわたしは時計を付けてパブリックになる。

人前に出る機会が減り、しばらくして時計を付け替えたら、
時間が新しくなり古い時間が役目を終えた。
パーソナルとパブリックの境はないまぜになりつつあり、戒めもほどかれつつある。

戒めの時計を記念に取っておいて労をねぎらうことはしない。
用途を十分に果たした道具は、ちゃんと道具らしく捨ててやるのがいい。
そうしてごみ箱へ。

元来、戒めというものをほどくためには通過儀礼が要ることを忘れていた。
モノヲタイセツニ・・・
だからわたしももうひとつの戒め、『母』から戒律を説かれた。
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by NOONE-sei | 2005-02-20 23:20

69夜 虫のすみか


葉に豆粒ほどのふくらみが。
枝には鶉(うずら)の卵ほどのふくらみが。
虫こぶというこの中にはアブラムシが生活している。

葉に卵を産み、その葉を巻き上げて幼虫のゆりかごにする虫。
枯れ葉と枯れ葉を口から出した糊で貼り合わせ、小舟にする虫。

ミノムシは、葉や小枝をからだから出す糸で綴って蓑の中で暮らす。

そんな虫たちの暮らしと住処(すみか)を
ちいさいさんたちと知った。

今日は塾。
羊羹を一切れずつ食べながら、円卓をちいさいさんと囲む寒い冬。
今日もわたしは69歳。
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by NOONE-sei | 2005-02-18 18:04 | 百夜話 本日の塾(9)

68夜 春遠からじ

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雪に沈みつづけた一日
ほんとうに春遠からじ?
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by NOONE-sei | 2005-02-17 23:43

67夜 年齢詐称


小粒のこと。                

小粒とは、一緒に円卓を囲む仲だ。
勉強を教えていると言いたいが、そう威張ってはいられない。
わたしがもし遅れたら、おやつを奢らされることになっている。
だから、小粒は時間にうるさい。1分の遅刻を心待ちにしている。

あるとき、小粒に歳をきかれた。
いつもしてやられてばかりだ。嘘をついてやれ。

「あのさー、年、いくつ?おれんちのかーちゃん、32だぜ。それより上だろー?」
「あーー、ずっとずーーっと上ですねー、だって70歳だもの。」

「え~?なんかへんだぞ、それ。だって車に年寄りマーク、付いてねぇべ。」
「え?車に、なに?」

「聞こえねーのっ?涙マークだよっ!な・み・だ・マークっ!」
「それ、なに?」

「だからっ!70からは車にシール、貼るんだぞ、それ貼ってねぇべ、だから70じゃねーんだ。」
「ほほう、そういうものなのかぁ。あれは70からなのかぁ。わかった。・・・69歳。」

「なんだ、かーちゃんよりずいぶん年とってんなー、ふーん。」
「もう耳も目も弱いんだから、よろしく頼むよ。」

「おう。しょーがねぇべ。」

高齢ドライバーの紅葉(小粒は涙だと思っている)マークが車に貼ってないから嘘だと気づく小粒は頭が回る。
しかし小学三年生には、まだ人の年齢を察するのは難しいらしい。

小学生低学年の特徴は、世界は自分を中心に回っているということ。
 かけっこがあったとする。
  「あのね、ぼくね、一番だったよ。
  △△ちゃんが前にいるの。走ってたよ。それでねそれでね、・・・ぼく一番だよ。」
前を誰かが走っていて一番であるはずはないのだが、自分は確固とした一番であり矛盾がない。
全世界の王、そしてひとたび傷つこうものならこの世の終わりほどの悲しみ。
男児には特に顕著なこの振れ幅の大きさが、低学年だ。
 三年生でも小柄な小粒も例外ではない。
小粒の話は誰になにで勝ったかそれ一色、そして一番以外の自分を決して認めない。
かっこ悪い自分を見たくない。

白か黒か、即座に答えが出ないものを小粒は嫌う。
ゲーム感覚での一問一答を好み、思考の伴う書くという行為を避ける。
プロセスをすっとばして結論のみを手に入れたがるのをふみとどまらせ、
毎回、あの手この手でその気にさせるのには、こちらもなかなか創意工夫の連続だ。
上手く乗せられないと授業はガタガタになる。ほかの子にも影響が出る。
依怙地になる、屁理屈で応酬、赤ん坊が眠くてぐずるのとおんなじだったりする。

小粒は母が大好き。この世でいちばん好き。
はなまるをあげたものを持たせても、忙しくて見てくれない母だけれど。
 小粒はいい絵を描く。本人には言わないが、幼くてほれぼれするくらいへたくそ。そこがとてもいい。
描いてというと、下手だからいやだ、当然そう答える。わたしが上手下手で評価しないことを知っていても。                       
                                 (~「4夜 世界一」「47夜 やきもち焼き」より~)
その小粒が、もうすぐ小学校を卒業する。
わたしの、ちいさいさんのクラスを終え、中学生の本格的な勉強が始まる。
このごろ、小粒はわたしにありったけの反抗をぶつけることがなくなってきた。
落ち着き始めた子供の開花は、速い。
声が少し低くなってきている。声変わりが始まったのだ。

急がなくていいよ、小粒。
わたしは君が三年生のときからずっと69歳だからね。
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by NOONE-sei | 2005-02-16 00:09 | 百夜話 本日の塾(9)

66夜 声のありか


St.バレンタイン・デー、女性から男性に愛の告白を。
告白でなくともよいのだけれど、女性の声というものには奥深さがある。

赤ん坊は母親の抑揚ある声に反応して、呼びかけに応えるかのように声を発するとか。
しかし実は、女性本来の自然な声は、思いのほか音程は低い。
一対一での会話ならそれははっきりとわかり、その低い声にはとらえどころのない不思議さがある。

映画「バグダッド・カフェ」で心地よい眠りに観る者を誘う曲「Calling You」。
女性の声の伸びるところが耳に残り好まれるのだが、わたしはそのあとの<呟き>が気になる。
  

       Ⅰ am calling you.
                < ・・・can't you hear me? >

        あなたを呼んでいるの。
                < ・・・・聴こえない・・・の? >


聞こえたままを訳したので本当はこうではないかもしれないのだけれど、
英語の歌詞がわたしにはこのように聞こえ、もし、こう歌っているのなら、
歌われる低くちいさな呟(つぶや)きは、たいせつな問いかけだ。
一曲の中で見え隠れする伸びやかさと呟き。

現実の世界でも同じく不思議はある。
 およそ八年ぶりだろうか。
幼なじみから唐突に今日、電話が来た。
度々の転居で、古い友人との線が途切れてしまっているという。
わたしは住む場所が変わらない数少ないひとりだ。

彼女と初めて出会ったのは十代になってすぐの頃。
少女の頃のわたしたちは、わりあい一緒にいることが多かった。
奥手なわたしに、文章のやりとりを教えてくれたのは彼女だったし、
まなざしはふたつあって、素直なまなざしと、斜の醒めたまなざしも同時に在ることを教えてくれたのも、
彼女だった。

結びつくことが偶然の産物だったように、疎遠になることにもさして理由はない。
環境の変化で疎遠になることを許しあえる、わたしたちはそういうつきあいかただったのだろう。
昔に帰ったように、互いに近況を語り合ううちに、ふと気がついた。
声の階調、声の色数(いろかず)が増えたような。

受話器を取ったときに聞いた彼女の声。
穏やかで低い、なつかしいはずの声。

名乗らなくても間違えたことのない彼女の声を
わたしは今日、聞き分けられなかった。
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by NOONE-sei | 2005-02-15 01:15