カテゴリ:新百夜話 父のお話(4)( 4 )

85夜 雪めんぼ


 「今日のシワ コ は雪めんぼになって、、、」

また王様に指摘される。
わたしが話す方言はいろいろ聞いているが、これは初めてだという。
記憶の底から掘り起こしたか、と笑われた。
わに丸にまで、聞いたことがあるかと問うて。

言った当人のわたしは、ちょっと気を悪くする。
小匙半分はいじわるだもの。
掘り起こす記憶には、言葉の金脈があるのだ、参ったか、そう言ってやればよかった。
いつも後になってから、
ああも言ってやればよかった、こうも言ってやればよかったと思う。

王様はわたしをネタにして笑うけれど、
わたしは、漢字を当てはめるとどんな字だ、と聞かれて困った。
方言の多くは、京で使った言葉が流れ着き、都では廃(すた)れてしまったのに、
なお、古(いにしえ)言葉として風化しなかった残像。
辿れば古典の世界にゆける。

雪めんぼの語源は何だったのだろう。
ワードの文字変換では、わちゃくちゃでお馬鹿な変換になるから面白い。
もとより機能に方言変換などないのだから、笑って楽しむしかないのだが。

今日の大雪で、我が家の「カドマツ」が雪の重さに撓(しな)った。
トンテンカンテンと金槌の音がする。・・父だ。

春に背の高いネジバナに(わたしはネジリバナと呼ぶのだけれど)、
撓って折れてしまわぬよう添える棒を 「手」という。
花や植木に手をくれる、と言うのだが、
門かぶりの松は(わたしは「カドマツ」と名を付けたのだけれど)、
背が高いし幹も太いので、手どころではない、「足」という支えが必要になる。

門の上に長く一本だけ腕を伸ばしたようなおかしな「カドマツ」に、
父は下から支える足をこしらえていた。吹雪の中で。
その間、わたしはカドマツに積もった雪を下から棒で払い落とすのを手伝った。
足元では雪まみれになって犬が遊ぶ。

 「こんな日に喜んでいるのは、おまえだけだぞ、シワ コ 。雪めんぼだ。」
父も犬に言う、雪めんぼ。

わたしの語源は父だった。
けれど京の都の語源は知らない。
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by NOONE-sei | 2005-12-19 20:30 | 新百夜話 父のお話(4)

73夜 錦の刺繍


紅葉の秋を錦秋、錦繍と言うとか。

もうすっかり秋は姿を変えて冬の入り口だ。
紅葉、黄葉、落葉前の樹木の葉が染まるのを愛でる、
紅葉狩りは十月からせいぜい十一月の初めあたりまでだろう。

昨秋は、だれかが「もみじ狩り」を「こうよう狩り」と言って笑わせてくれた。
紅葉(こうよう)は、今でこそ赤いモミジを思うけれど、万葉の頃のそれは黄葉。
紅葉が紅葉を意味するようになったのは平安の頃だという。
そして、指のように五つにくっきり裂けた紅い葉を指し、特にモミジと名づけているけれど、
紅い葉のそれらはカエデ類。ほかにも紅い葉になるのは、わたしの苦手なウルシ科の落葉木。

小さい頃、春の芽が萌え出す頃に山を歩くと、触ってもいないのに顔がかぶれて、
ぼた餅のような顔に病院で薬を塗られ、包帯でぐるぐる巻きのミイラ男のようになるのが嫌だった。
わたしはどれがウルシの木なのか、今も見分けられないので、山に入ると植物にはめったに触らない。
父が言うには、山菜のタラの芽とウルシの葉はよく似ているのだとか。

この秋、渓流沿いに渓谷を歩き、山に登って色の森の中を歩いた。
磐梯朝日国立公園に、安達太良も吾妻も磐梯山もある。
磐梯山のふもとの渓谷までは家から車で約三十分。中津川渓谷という一級河川。
川には岩魚が泳いでいた。
父に教わって、岩魚(イワナ)と山魚女(ヤマメ)の違いを初めて知った。岩魚の胸ビレは白い。

その日は行楽日和で、観光バスや県外からの車がたくさんあり、
山行きのいでたちの旅行客が上を見上げ、景色を眺めながら大勢歩いていた。
けれどだれも川を覗き込まない。
立派なカメラを携えた一団が山道をそれ、日光の差す美しい葉と葉の重なりを撮影していた。
先生と呼ばれる男性に、カメラを向ける位置を指導され、ひとりが驚嘆の声を上げる。
「世界が違うわ!」
けれどだれも苔の生えた地面に落ちた葉を見ない。

ひととおり歩き終え駐車場に戻ったら、何故だろう、カメムシが地面を数えきれないほど歩いていた。
父の母、わたしの亡くなった祖母の強烈な思い出が蘇った。
 家の中にカメムシがいて、触ろうかどうしようか迷ってわたしがじっと見ていたら、
「セイ、こんなものはこうするんだ。」
ぱっと掴んでぱくっと口に入れ、あむっと噛んでぺっと出した。
カメムシは触ると臭い。いつまでも手には臭いが残る。それを婆ちゃんは噛んだ!

戦後、満州から家族全部を連れて無一文で引き揚げた祖母にとって、
虫一匹をじっと見るわたしが、どれほど不甲斐ない子供に見えたことだろう、と今になって思う。

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山道には苔が生えている。滑るから足元に気をつけて歩く。

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渓流。岩魚は流れに逆らって泳ぐ。

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中津川渓谷を山から見る。この渓流に沿って歩いた。

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渓流の足元にはこんな落ち葉が。

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むこうの山は磐梯山。頭だけがちょこっと。
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by NOONE-sei | 2005-11-15 23:51 | 新百夜話 父のお話(4)

15夜 一升飲みの松


森の石松や、清水の次郎長の世界じゃない。

花鳥風月というけれど、松に月というのも趣があるらしく、
浮世絵やら日本画やらに描かれ、歌にも詠みこまれているようだ。
15夜は、その月じゃなくて松のほうのはなし。

父がこよなく愛でる我が家の松、カドマツ。
門の横に鎮座して、まるで片手一本だけを門の上に伸ばしているような、
わたしにはミョウチキリンにしか見えない松。

ちょうど桜の頃、父は真新しい、青々とした太い竹をどこからか持ってきた。
ここでご存知、脚立の登場、二本の脚立に板を渡し、その上に乗って松の枝を支える竹を取り替えた。
松に青竹、門構えはすっかり料亭か割烹だ。
父は、竹取の翁か花咲か爺か。梅があれば、目出度い役者の揃い踏みだ。
・・我が家は凡なる一般人の家なのに。

どうも松には因縁があるらしい。
塾のブロック塀の門には松が植えてあって、これは大家さんの趣味か。
父の松とちがって、こちらは背が低い。けれど、三本も。
店子(たなこ)になったときに、広い庭を好きなようにしていいと言ってもらったので、
シロツメクサを植え、二十種近くがひと袋に入った混合種子を蒔き、花は咲いてのお楽しみをたのしんでいる。
・・しかし、松は合わないんだ、松は。

片目をつぶり、二年間は松を黙殺した。
新芽が伸び、翌年もまた伸びて、ばさばさになってきた。
 大家さんには、毎月店賃(たなちん)を納めにゆく。松の話を切り出した。
・・大家さん、松もさることながら、松を植えたときの土がご自慢だった。

さっそく植木職人に剪定してもらったあと、大家さんから以後剪定は好きなようにやるといいと言われた。
・・好きなように?好きじゃない場合は?
放っておいて一年が過ぎ、今年は二年目、また新芽が伸びて、ばさばさになってきた。

先日、青々とした松ぼっくりがなっていたので、観念してちょきちょきと新芽を切り始めたのが運の月。
じゃなくて運の尽き。面白くなってしまったのだ。もう、じょきじょきだ。
・・枯れなきゃいいが。松の剪定は難しいんだった、、、。

ひとが愛でる順番は、若い頃は花を好み、やがて緑から樹になり石になり、さいごは土になるという。
父が施すカドマツへの恵み。
一升酒をときどき飲むのは土か?松か?

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by NOONE-sei | 2005-06-11 00:05 | 新百夜話 父のお話(4)

2夜 ブレーメンの動物園


2夜は、にゃぁ、ということで。

朝、「傷んだ林檎はないか。」と父が言った。
冬からずっと食べていた林檎が、いよいよ、さすがに底を尽いた。
春になると味も食感も落ちるのだが、それでも林檎は欠かせなかった。
「トリコにやらなきゃならない。待ってるからなぁ。」
 庭には、父が鳥のためにこしらえた餌台がある。
どこから見ているのか、台に載せるとほどなく鳥はやってきて林檎を啄(つい)ばむ。
大抵は鶫(つぐみ)で、美しい鳥とはわたしは思わないのだが。

父は小さきものに、「コ」を付けて呼ぶ。ちいさな発音、文字表記するなら半角程度の「 コ」。
だから小鳥はトリ コ だ。おなじように、子はコッ コ 、男の子はヤロ コ 。
おかげでわたしには、名前のほうにまで「コ」を付ける習い性ができた。ニュアンスでいうなら「・・ちゃん」。

うちには、雑種も混ざりに混ざるとこんな地模様になるかと思う、野良で生まれた灰色の猫が居る。
名はアク。悪女の悪ではなく灰汁の灰(アク)だ。父と母の猫。
それにわたしは 「 コ」を付ける。・・アク コ。「 コ」を付けようが付けまいが、もとよりおかしな名。
いつも父猫と母猫の影で生きている。もう成猫なのに。
そして性格も器量も悪い。どれほどかはまた別の折に、、。

うちの本命は、眼が不自由になって、散歩は盲導犬ならぬ、人間が盲導人をやっている犬。
名はシワ。シュワルツェネッガーのシュワじゃない。皺のしわだ。
王様とわたしとわに丸の犬だったが、病気をしてからは、母に、以前父が飼っていた名犬と
器量を比べられることがなくなり、我が家の市民権を得た。
大型犬は仔犬のときに皮がたるんでいる。それを見てわに丸が名を付けた。やっぱりおかしな名。

思えば我が家に縁あった動物達は皆、おかしな名だった。
もとをただせば、父は犬の繁殖家だったので、産まれた純血種の犬はそれぞれ譲った先で名を貰うから、
名を付けてやりたくてもそうはできなかった。
色や見た目で記号のように名を付けざるを得ない、それがすこし悲しくてわたしは 「 コ」を付けた。

しわ コ 。わたしはその名が気に入っている。
そして野生の生きる力を見せつけてくれたこの数ヶ月、犬ながら天晴れ(あっぱれ)だったと思う。
 だれも思わないだろうが、「しわ」は「志麻」を連想する。岩下志麻、である。
眼や左半身に不自由はあっても、尻尾を高く上げて歩くしわ コ は極妻シリーズの岩下志麻姐さんだ。
そして優しさがある。
 夫君篠田正浩監督は、妻に映画に出演してもらうときには、「いつもの貴女のままで」と言うという。
あの志麻姐さんは家族の中にあっては、はたから見えるものとは違うものがあるらしい。

先日、そろそろ人に馴らす練習をするために、しわ コ を公園に連れて行った。
子供はしわ コ に少し距離をとって「オス?」と訊ねるのが常だ。
動物同士の野生は、人間にもちいさな子供にはまだ備わっている。
しわ コ には、目に強い力があった。
目つきが悪い訳ではなく、その目の強さゆえに、あっという間に動物同士の位置関係は決まる。
人間の子はそれを肌で感じて「オス?」と表したのだ。
 それが最近はちがってきている。
目が柔和に見え、天然が入ったようなのだ。わたしは愛嬌に変わったそれを「おたふく」と呼んでいる。
子供は、しわ コ を躊躇なく撫で、頬ずりする子までいて驚いた。
すこしおたふくになって、しわ コ は新しい犬になったんだろう。

幸せはさまざま。時は変化し、ありのままと思っていたものは新しくぬりかえられる。
ブレーメンの音楽隊も未来になにがあるかはわからなかった。

餌台に林檎のなくなったトリ コ も、臆病なアク コ も目の不自由なしわ コ も、
コ は付けないが不器用なわに丸も、
おかしな名を持つ動物園の住人たち、ただ懸命に生きてくれ。
長寿を全うした、婆犬なのに赤 コ も、その子供の黒 コ も、
心臓を患っても生き延びた、犬なのに熊 コ もそうであったように。
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by NOONE-sei | 2005-05-05 23:05 | 新百夜話 父のお話(4)