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78夜 ざらんぽん


小さい時、本家のばっぱちゃんが朝になったらぽっくり死んでいて、
顔にかかった白い布を取ってくれと、幾度もせがんで顔を見た。
別れを言いに、ひっきりなしに人が出入りするのに驚いて、
それまで片時も離せなかったおしゃぶりをくわえるのを 忘れてしまった。
愛情が足りなかったのかわたしが歪んでいたのか、
わたしはおしゃぶりをくわえながら遊ぶ、奇妙な子どもだった。

わたしが育った山あいでは、ひとが死ぬと近隣の人々が集まってざらんぽんをやる。
それはつまり念仏講で、皆が輪になって座り、念仏を唱えながら一本の長い数珠を回す。
柱に寄りかかって、次々に年寄りが座敷に上がるのを数えながら、
ふいっと自分の年も数えてみたら五歳。
それがわたしの記憶の原点だったらしく、それ以前の記憶がほとんどない。

本家の伯父が救急車で病院に運ばれたので、
この二週間毎日見舞い、付き添う家族に時々弁当を届けていた。
数ヶ月前のわが家の看護の日々、わたしは食というものを切り捨てていた。
買い物に出る時間もなかった。
犬の散歩を申し出てくれた友人に、欲しいものはあるかと聞かれると
調理パン十個などと頼むので、もしや食べるものに困っているのかと訊ねられ、
そうだと答えると、不憫に思った友人たちが幾度も差し入れを届けてくれた。
食のありがたさが身に沁みたので、めぐりめぐっての恩を還(かえ)したかった。

ところが、ひとが死に至る過程をつぶさに見て知ってしまっているので、
伯父の毎日の状態の変化に、死へのどの位置にあるかが視えてしまって困った。
体温の変化、血圧や呼吸の変化、尿や痰の量や色、むくみ具合、、、、。
もうすぐだとわたしにはわかるのに、付き添う者にはわからない。
これから訪れる状態に怯(おび)えないよう、わたしの場合は訪問看護士さんが
終末の身体症状の推移を記したものを前もって渡してくれた。
けれども彼らには、そうした悲しみの伴なう洗礼がない。

病院では、延命治療を受け入れるか否かの選択の時がある。
家族の気持ちを整理するための必要な時間と捉えることもできようし、
純粋に、生命を維持して欲しいと願う祈りと捉えることもできよう。
その時、患者の意識レベルがどうかということは、急を要するから考える暇(いとま)がない。

わたしが見舞ったその日は桜が満開の日で、伯父は機嫌がよかった。
小さな声で、桜の歌を歌うので、口元に耳を近づけたら、
桜は散りゆきて 夕日はおちる という歌だった。
「おじちゃーん、今が桜の満開だよー。綺麗だー。」
その夜、医者にうながされるままに家族は同意して伯父に人工呼吸器をつけ、
まだあった意識レベルを麻酔で下げた。
直接の肉親でないわたしは、ただ黙って同席していた。

今日、本家はざらんぽんだった。
ゆうべのうちに食の差し入れはしたが、今日は本家に行かなかった。
子どもに還ったように、年の行った娘たちは泣きじゃくっていて、
死の時を わたしだけが秘密のように知っていたことが申し訳なかったような、
幼い頃に聞いたざらんぽんの、じゃーらんじゃーらんという音が恐いような、
すくむような思いに還りたくなかったから。


                          * * *


気分を変えて十日前の春を。
今の春はもうこの風景ではない。目で愛でる桃ではなく舌で愛でる桃の花盛り。
そのお写真は、また今度。

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春の小川。この日は風が強く、木々の枝は揺れ、つがいの鴨が水面に居た。
このお写真は明るい。


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明るいお写真はなんだか落ち着かない。現実はどうあれ、自分の目に映る光量はこんな感じ。


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田んぼの中に、桃農家の花畑がある。後ろに見えるのは屋敷森。
『イグネ』と言ったほうがわかるのだろうか。
この間の嵐で、屋敷森に被害を受けた農家がたくさんあった。


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連翹って、蝋梅に比べると華やかな黄色。
枝の長いこの小さな花の群を見ると、ダンスをしているように感じる。


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鑑賞用の花桃は色が濃い。桃紅(ももべに)なんていう言葉はあるか?
わたしは、まるで桃紅のかたまりのように感じるのだけれど。


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赤い花はなんでせう?それはね、セイだよ。  ・・ぼけ。 くすくす
by NOONE-sei | 2008-04-27 15:16


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