22夜 神さまからの贈り物


人間を葦にたとえた言葉が幾つかある。

それは聖書の中だったりパスカルの著書の中だったりする。
ただ風に揺れる葦でなく、思考する葦でありたいと。
人間に備わった考える力は個を離れ、自由に時間も宇宙も越え、量に支配されない。

エデンの園で林檎を食べてしまった人間は、永遠を失い限りある命と知恵を引き換えにした。
知恵。考える力。思考すること。
神から与えられたもの、これを罰というのか贈り物というのか知らないが、
もしも思考の対極に忘却があるとしたら、忘れることはきっと神さまからの贈り物だ。

・小川洋子「密やかな結晶」
あたりまえに暮らす普通の人たちが、少しずつ小さなことから忘れていく。
 たとえば「赤」という文字を失くしたら、赤いものが人びとの頭から消える。
赤という色、赤い果物、赤にまつわる想い出、概念も想念もすべて。
在ったということを忘れるのだから、悲しくはない。
 たとえば右足が緩慢に消えていったら、両足で歩いていた記憶が消える。
どう歩いて走っていたか、その足でどこへ行ったことがあるかもすべて。
はじめからそうであったように思えるのだから、悲しくはない。
 にんげんは有機体。だから哀しい。
しかし、静かに気化してゆく人間を静かに綴るこの物語には不思議な清らかさがある。


忘れるから救われる、そういうことのこの世になんと多いことか。
[PR]
by NOONE-sei | 2004-12-15 15:27 | 趣味の書庫話(→タグへ)


<< 23夜 闘いの前夜 21夜 オウムがえし >>