6夜 寂寥の映画、蟲師

 
  映画を観る予定の人は読まないほうがいい。

春は名のみの風の寒さよ、雨の冷たさよ。
昨日、山のふもとの公園に出かけてみた。
安達太良は雪をかぶり、家の窓からは美しく格別に思えたので、
犬といちばん綺麗に見える場所を歩きたかった。
けれど、公園に着いてみると高い木々が撓(しな)り、轟音に耳が痛い。
防寒着にマフラーに耳当てと毛糸の手袋、完全防備だったのに、風に煽られて歩けない。
吾妻おろしが直撃しているかのように。

風鳴り、、、などという言葉はあるんだろうか。海鳴りのような響きの音々。
こんな音がいつも耳の中から脳の奥を駆け巡っていたらさぞ辛かろう。
映画で描かれたひとつめのエピソードは、音にまつわるもの。
深閑とした音のなくなる雪国で、音に苦しみ額に角が生えた子どもの話。(『柔らかい角』)
ふたつめは、山々を蛇のように渡る虹を追う男の話。(『雨が来る虹がたつ』)
みっつめは、旅の蟲師たちから聞く話を書写することで、身に蟲を封じ続ける娘の話。(『筆の海』)
よっつめは、主人公の蟲師ギンコの生い立ちに関わる話。(『眇の魚』すがめのうお)
原作の漫画は一話完結の物語が並ぶ。本屋で一巻目が出たときにたまたま手に取って以来、
どこでもなくありそうもない話なのに懐かしく、傍らの近しさを感じて静かに読んできた。

映画「蟲師」を観て、その全編に流れていたものは、さみしさの残る無常観だった。
大友克洋が蟲師を実写で映画化すると聞いて驚いたのは正直なところ。
リアルタイムで彼の漫画は読んでいて、ことに初期作品の残酷なほどの小気味よさは魅力的だった。
その後、徐々に勢いよりも物語に力点が移り、老人の皮を被った子どもや子どもの皮を被った老人、
脳と体の均衡が崩れた子どもが描かれるようになった。
漫画「童夢」、アニメ映画「AKIRA」「スプリガン」はその典型だと思う。ことに原作の漫画「スプリガン」は、
骨太で健全な少年が主人公なのに、よくも刻んでくれたものだと恨めしかった。
近年の彼には少し距離を置いていたので描こうとするものがわからなくなって久しい。

映画「蟲師」は、虫愛(め)ずる者でなければ生理的にたまらなくむずがゆい映画。
贅沢なロケーションは琵琶湖近辺と聞いたが、うちの近くの山ではないかと思うほど懐かしかった。
よっつのエピソードには原作から離れた関連を持たせ、
実の親を失くした子どもと実の子を失くした女、ギンコと育ての親の話を中心に据えている。
ギンコ(幼名ヨキ)に情が移ることを拒み凛として立っていた女蟲師ぬい。
光の彼方に捕らまえられ消えたと思ったぬいはまるで別人か気がふれたようになって生きていた。
わたしは映画を観ながら、能にもなった「黒塚」が重なってならなかった。
原型は、安達が原の鬼婆伝説、、、安達太良のふもとの話だ。母とは罪深くて哀れなり。
消えるべきときを逃(のが)した者の末路は哀れだ。ヨキを求めるあまり、子殺しまでもする。
人でないようなぬいとどこで出会ったか、それを手伝う亭主、あれはあれでひとつの愛の形なんだろう。
ギンコが再び変わり果てたぬいと出会い、森の中でぬいを浄化するということは葬る弔うことに他ならない。
映画はギンコの行く末を暗示するような映像で終わる。

山のふもとの公園から帰る途中、遠く眼下に虹を見た。赤黄緑青紫。
映画で男が追う虹、虹蛇は無数の蟲の集合体、色は本当の虹と逆さまなのだという。



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この日見た安達太良山は、頭を雲で隠していた。どうしてこんなに青いんだろう。



参考
「蟲師」概要 Wikipedia
映画「蟲師」オフィシャルサイト
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by NOONE-sei | 2007-03-31 22:06


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