97夜 書くということ


ちいさいわたしを育てたのは物語で、読むことは好きだった。
けれど書くということはまた別で、苦もなく書くというわけにはいかなかった。

人に自分の考えを正しく伝えるのはむずかしい。
「伝える」という作業、とりわけ「話す」という行為は、不確かで曖昧だ。
自分にとってぴったり感じる言葉を使っても、
それが伝えようとする相手にぴったりかといえば、そうとは限らない。
相手にぴったりするように、量(はか)り感じ取りさぐりながら言葉を選び、
かたや自分は相手の考えを正しくトレースしているのかを検証しつつ会話は進む。
こうして書くと複雑そうだけれど、会話するとき人は皆、瞬時にそれを行なっているのだから、
その知力や集中力は高度で、その時、脳の中はさぞや赤く活発に活動していることだろう。

伝えたつもりが伝わっていなかったことを知る、そんな苦い思いを何度も繰り返し、
こう言えばよかったああ言えばよかったを重ね、あまりの辛さにわたしは意識的に自分を訓練した。
後悔して傷ついても取り戻せない思い出を 人は幾つも持っていると思う。

もうすぐ中学生になるちいさいさんたちに、ここ最近、塾で「あらすじ」を書いてもらっていた。
ほんとうに小さなちいさいさんには民話を読んでやるのだが、
そしてそれらは東北の言葉で書かれたものでなんとも楽しいのだが、
もうすぐお姉さんになるちいさいさんには、問題集に載っている、物語の抜粋を読んだ。

『ききみみずきん』 木下順二
『マクベス』 シェークスピア (魔女が予言を与える場面)
『めくらぶどうと虹』 宮沢賢治

「書く」という行為には、年長になるほど苦戦する。
思春期にさしかかっている子ほど、情感を最小限、またはばっさりと削(そ)いで簡潔にまとめる
ということに抵抗が出てくる。美しい肉付けがされている文学を骨にしてしまうわけだから。
けれど、実はその健康な抵抗こそ、情緒が育っている証なのだが。

やがてあらすじを書く回を重ねるほどに、削ぐことができず盛りだくさんの文章を書いた子は、
コンパクトだけれど品のある文章になり、残酷なほど簡潔すぎる文章を書いた子は、
嫌か、または、いいかの二極しかなかった視点に灰色の層が生まれた。

もっとずっとこの子たちのあらすじを読んでいたかったけれど、今日から二月、
中学での即戦力をつける学習に移らなきゃいけなくて残念だ。
あらすじは今日でおしまい、と話した時にわたしが言った言葉。

「将来、人に何かを伝えたいときがあるとするでしょ。
そのとき、いっぱいいっぱい伝えたいことがあるとするでしょ。
でも、頭の中を開いて、その中身を見てもらうわけにはいかないよね。
思っていることを言葉で簡潔に、正確に、十分に伝えたい、
そう貴女たちが心から願ったときに、これまでの作業がきっと力になってくれるから。
いつかそういう日がくるから。」

・・・伝わったかどうかは量らなくていい。わたしは未来の彼女たちに話し掛けたんだから。
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by NOONE-sei | 2007-02-02 01:45 | 新々百夜話 本日の塾(9)


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