24夜 桜の木の下 


燃える男の赤いトラクター。なんの歌だったっけ。
散歩に出たら、赤いトラクターが田んぼの中をくるくると動いていた。
もちろん、青いトラクターだっているけれど。
その横にカラスが寄ってきては、掘り返された土から出てくる虫のご相伴にあずかっていた。

お百姓さんは忙しい。田んぼは苗代掻き、すでに水の入った田んぼもある。
四月は桃の木の手入れ、十時と三時の一服には木の下で談笑する姿があった。
桃の花も盛りをすぎ、木には緑の葉が見えてきた。五月は田植えの準備だ。

今日は暖かくて、もう春は終わって初夏になるかと思うけれど、朝晩はストーブを焚く。
山には、これから咲こうとしている桜もある。
ある場所では春が終わり、ある場所ではこれから迎える春。

「お前、この爛漫と咲き乱れてゐる桜の木の下へ、
一つ一つ屍体が埋まってゐると想像してみるがいい。」
梶井基次郎は「桜の木の下には屍体が埋まってゐる!」と言ったけれど、
わたしは、梶井が言う「惨劇」のイメージを桜に重ねない。少なくとも春の間だけは。

数えきれぬほどの苗を植え、花見に客が集まる場所の桜は人工的だ。
かたや、山にぽつりと一本植えられた桜の場所は、日当たりよく、眺めもいい。
山の斜面には、よく墓がある。あの世も良い所であるようにと、山の一等地を墓にする。
そんな場所を選んで埋めてあげたくなるのもごく自然な心。そしてお供えみたいに桜を一本植えるのだ。
ご先祖様が眠る場所には桜が咲いて、ふもとからもよく見える。だから桜の場所は極楽浄土。

梶井が、桜は屍体から出る「水晶のやうな液体」を吸っていると書く背景は、「憂鬱」。
生きている実感が得られないことの裏返し。
胸を病み、まだ二十代の若い梶井が神も仏も払いのけた、孤独で屈折した意識。

古くは死は、西洋なら神の手に、東洋なら仏の手に委ねられた。
けれど梶井は自身の手で引き受けようとした。それが近代を代表する作家たる所以。
よるべのない生は辛かろう。

梶井の言う「桜」とは、わたしには古木のしだれ桜のことのように感じられる。
ああいった不気味な桜を 山の墓のそばではあまり見かけない。
自らの根幹を裂いてしまうかと思うほど一本の幹から垂れ下がった異様な枝々を見ると、
それは千手観音ではなく、何体もの幽霊の手に見えてしまうのだ。
手入れされ、支え木で生かされているけれど、引き受ける手が本当はあるだろうか。

昨年も今年も、意識してわざと山の桜は撮らなかった。
山の桜の下には墓があり、そこは聖域のようにわたしは思うから。

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丘の上から見た桃畑。左には屋敷森という防風林も見える。
 
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by NOONE-sei | 2006-05-03 17:47


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