98夜 海に還りたいか


ひとは魚だった。
それは遠い遠い昔ではなく、ついこの間のこと。

胎内の海で、赤ん坊の魚はあくびをする。
羊水をこくこくと飲んだり指をしゃぶったりおしっこしたり。
誕生のときが来ると、ひとになるために産道をねじれながら下りてくる。
産まれた赤ん坊が産声を上げるのは、えら呼吸から肺呼吸に切り替わる初めの息。

何故泣くんだろう。
もう還れない羊水の海を思って泣くんだろうか。
まれに、ひとになったその時の苦しみを記憶している子供もいる。

ひとりの女性に泣かれた。
遠くで長兄と暮らす、年とった母の身体が弱っているという。
もとより彼女は、母が高齢になってから生まれたから、兄や姉とも親子ほどの年の差。
いつも忙しそうな大人たちの中でぽつんとひとり。
食いごしらえも自分でやったし、早くから自立心を持った。
末の子はかわいがられるというけれど、まれに、そうではない子もいる。

彼女は、早く独立して自分の家庭を持ちたかった。
初めてのお産には、兄に遠慮した母が、帰って来てもらっては困るというので、
自分の産後の世話を家政婦に頼んだ。金銭面で負担をかけたことはない。
親兄弟に、末の子だからといって、迷惑をかけたくないというのは彼女の意地だった。

聞くと、たいしていい親とも思えないのに、何故、彼女から親の愚痴がないのか。
親には複数の子供達だけれど、子供にはたったひとりの親。
子供とは、不憫なものだな。

 「セイさん、大人になってから聞いたのだけど、
  母親は私を生みたくて産んだって、言ってた。」
嬉しかったという。それをずっと知りたかったという。
本当に子供とは、不憫なものだな。

話しながら、彼女の記憶は少しずつ幼い頃に戻っていった。
このままどこまで溯(さかのぼ)るだろう、、、と思った。
魚になるのかな、とふと思った。

何故泣くんだろう。
もう還れない母の海を思って泣くんだろうか。
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by NOONE-sei | 2006-01-26 00:17


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