33夜 幻都が見せたまぼろし 


中学生のわたしは、
授業はお経にしか聴こえず、なにをやっているのかさっぱりわからず、
そして勉強が嫌いだった。

高校受験は、勉強もろくにしないまま冬になり、
しまいには、家庭教師の世話になることになってしまった。
彼は大学生で、ときどき文庫本をわたしにくれた。
カフカの「変身」、コクトーの「恐るべき子供達」、ヘッセの「デミアン」等々。
ごほうびに貰うには、すこし寒い感じがする本ばかりだった。

わたしは、文学というものに目覚めなかった。
思春期までのわたしを育み、形作ったものは、
アンデルセン・グリム・ペローなどの岩波文庫、思えば物語だった。

活字は好きだったから、本も時々は読んだけれど、
高校でも、せいぜい記憶にあるのは野坂昭如と倉橋由美子くらいだ。

本から学べ、というけれど、
わたしは本から追体験して得るものを感じなかった。
たいした現実ではなかったが、わたしをとりまく現実がわたしに教えるもののほうが、
ずっと真理に近かった。
家庭教師がくれた本も、「デミアン」以外、読んでいない。

33夜、今夜はザムザのお話。

映画を観た。カフカの「変身」(露 2002年)。
冒頭の、『ある朝、目が覚めたら巨大な虫に変わっていたグレーゴル・ザムザ・・』
本を読んでいなくとも、これは有名な一節だとか。
それを知らないでも、宣伝のポスターを見たら惹かれてしまう。
虫とは真逆の甘く美しい、絵のようなポスター。

幻都プラハの生んだ、不条理文学の金字塔、、とポスターに書いてあったので、
舞台の不条理劇、ベケットやイヨネスコの戯曲のように、
たとえば来そうで来ないものを待つような、終わりのない物語かと思っていた。
そして、これらきちんと収束させない作品群を どこか皮肉な目で見てもいた。
本を読んでいないわたしは、たかをくくっていて、「変身」が悲劇だとは知らなかった。

不条理のなんたるかは知らないが、
虫になった息子におののく両親は、哀れだった。
慕っていた兄が虫になって、虫のなかに兄を見いだせなくて、
憎悪と悲しみがない交ぜになる妹の感情は、わたしに流れ込んで棘になって刺さった。
自室に閉じこもり、半ば閉じ込められ、忌まわしきものとして扱われるザムザには、
汚くなって衰弱して死ぬまで、家族を思う気持ちがあった。
その綺麗な目、懸命な表情が悲しい。
 「変身」は、誰が悪いのでもないのに、理由もなく悲劇が起こり、
彼が死ぬことで、周囲に安らぎが戻るまでを描いた映画だった。

その夜は、夜一回七日間上映の最終夜。
八十席ほどのちいさなところ、お客は十人くらいで皆ひとりの客。

ポスター以上に美しい本編を静かに観て、映画の中に雨の音を聴いて、
わたしはコンピュータを駆使して作り出される画像にまみれた映画に、
自分の目が麻痺していたことを恥じた。
昔、フェリーニの映画を観た頃のような、追うのでなく求めるのでなく、
映画に連れてゆかれるままについて行くような、
そんな映画の見方を思い出した。
この、精緻で美しい映画をわたしは忘れられないだろうと思う。

そして、美しいほどに悲しくなる、その悲しみを呼び覚まさぬよう、もう二度と観ない。

c0002408_0315249.jpg
映画 「変身」
[PR]
by NOONE-sei | 2005-08-04 00:41 | 趣味の書庫話(→タグへ)


<< 34夜 御世哉 32夜 すちゃらかな家族の肖像 >>