98夜 あなたは原初の女性ではなかったか


智恵子は何故『智恵子』ではなく『光太郎と智恵子』なんだろう。
対の存在として語られることが悲しい。

高村光太郎の妻となって共に暮らす故に、
阿多多羅をほんとの空と言わねばならなかった智恵子。 <智恵子抄 ~あどけない話~ >
あの光るのが阿武隈川と言わねばならなかった智恵子。 <智恵子抄 ~樹下の二人~ >
 それらの詩は智恵子が死んでのち、透明で清新な存在として再構築した、
光太郎が願う『光太郎の智恵子』であり、光太郎によって語られた物語、
その詩集を人は愛の物語だという。

現実の安達太良山はどんな山だろう、、、。
そのシルエットは撫で肩で、登るにはそう厳しくない。
しかし場所によっては、高濃度の火山性ガスが人を死に取り込む、山頂は草木のない荒涼とした裸の山。
お花畑の山ではなく、その風景は厳しい。だから朽ちていて美しい。
 光太郎が智恵子の言葉を借りて語る安達太良はロマンチックで、愛の象徴として用いられたにすぎず、
光太郎自身が足で登り、肌で感じた実感は伝わって来ない。
智恵子抄はなんというか、・・緩(ぬる)くて、光太郎が居るようでいて、居ない。

では『光太郎』とはなんだ?
芸術の域に憬れた、健全な、努力家。
美の世界の住人には二種あって、もとより自己完結して美を手にする者と、
誰かや何かに照らしながら、そこに映ったものから美を知る者のふたとおり。光太郎は後者だ。
 はたち、20歳にはロダンから腰の強い彫刻を 25歳にはボードレールやベルレーヌから自由詩を得る。
そして28歳で三つ年下の智恵子と出会い、以降54歳に智恵子を見送るまで、
光太郎は智恵子からインスピレーションを受け続けた。
智恵子によって自分は清められ、制作の力が芽生え、洪水のような愛を受け続けたと光太郎は言うが、
製作を制作に換えるのに、外から何かの力を借りなければならない種類の者だった光太郎の、
智恵子は鏡になったんだろう。

わたしは敢えて年齢で追って、現実感を伴わせたい。
 智恵子の精神に翳(かげ)りの兆しが現れたのは、光太郎が48歳のとき。
今なら熟年夫婦、光太郎はあどけない幼子(おさなご)のように智恵子を描いているけれど、
実際の智恵子は45歳から52歳までの闘病期間が、『智恵子抄』だ。
現実感を取り払い、愛という名の昇華されたものだけが描かれているところに
智恵子抄の良さがある、といってしまえばそれまでだが。

光太郎を知る上で、もうひとつ重要な鍵がある。・・父の存在。
光太郎の父、光雲は美大の教師となって彫刻家と呼ばれるようになったが、
もともとは仏師。年季奉公をした木彫り職人だった。
息子光太郎にとって、跡を継ぐというあらかじめ決められた将来は、幼少から抗えないものだった。
その父は光太郎が51歳まで存命だった。智恵子が亡くなったのはそれから三年後。
 高名な父の息子という世間の目と、内実の結婚生活の窮乏に智恵子は苦しみ、
それは精神の翳りにも影響しただろう、、、そう光太郎は言うが、
父の呪縛に苦しみ、本物になれない自分に苦しみ、それでも
父のいる東京を離れられなかったのは、他ならぬ光太郎だ。誰でもない、自分自身のことだ。

51歳で父と別れ、54歳で23年間の結婚生活を終えた、その後の光太郎の人生は変化する。 
智恵子抄を刊行し、62歳で岩手に疎開し、山小屋で農耕自炊生活を始める。
星の群の盛観を超人的な美しさと呼び、山の暮らしを天然の法楽にたとえて暮らす。
73歳で亡くなるが、こうして年齢で追うと、まるで定年を人生の境とする現代の社会と
妙に重なってきはしないだろうか?
光太郎作品は、若い時分より、年齢が上になってからの作品のほうが深いのも不思議な気がする。

では『智恵子』とは。
若い時分には、
 「元始、女性は実に太陽であった。・・・・」
という平塚らいてうの書き出しで始まる国内初の女流文芸雑誌『青鞜(せいとう)』創刊号の表紙絵を描いた。
いわゆる「冬の時代」が到来した年、困難な中、青鞜は創刊された。
青鞜は文芸誌として出発したが、のちに女性解放誌の色合いが強まってゆく。
 また、智恵子は紙絵にその才を開花させた。
50歳になってから亡くなるまでの三年間に凝縮して生み出した千数百点に及ぶ紙絵、その鋭利な美しさ。

ひとつは、時代の流れの始まりの場所に立ち会ったひとであり、もうひとつは、晩年に美を手にしたひと。
智恵子抄はそのディテールにすぎない。これはあくまで私観。

青鞜創刊号表紙絵
智恵子の紙絵
青鞜の概要と、青鞜を支えた人たち(参考)
[PR]
by NOONE-sei | 2005-04-09 16:25 | 趣味の書庫話(→タグへ)


<< 99夜 死の顔 97夜 今夜、大地は循環する >>