数のない夜  病めるときも


 ・メンタルな話なので引き寄せられる人は読まないほうがいい

もうじき父の命日。
ちかごろ、わたしの「記念日反応」が朝になるとやってくる。
目が覚めると、そこが病室なのか家なのか、よくわからない。
なぜだか病床の父がいなくなっているような気がして、
看護士詰め所で一睡もせずに働いている父を迎えに行かなくちゃ、と思う。

朝、よく病院から電話がきて起こされた。
父がずっとぴかぴかに起きて、騒いでいるから来てくれという知らせ。
見えないものが見えたり、居ないひとがいたり、
看護士たちは、夜の病院で繰り広げられる長い架空のお話には慣れっこになっているのだが、
父は働きづめだったから迷惑をかけた。
夜中に様子を見に行くと、父の隣の空き寝台で、たたんで重ねた布団の上に日誌を載せて
お座りして書きながら父の相手をしてくれている看護士の後ろ姿を何度も見た。
やがて寝台から朝方転げ落ちるようになってからは、寝ずの番で付き添うようになったから、
もう朝の電話はなくなったのだけれども今頃になって錯覚する。

結婚式で訊かれるだろう?病める時も健やかなる時も、あなたは愛し続けられますか。

母はぴかぴかになった父を「あれはお父さんじゃない」と言った。
だから付き添いたがらなかったし恐がった。
水が引いたように透明な眼差しになって、静かに話ができる時もあったのに、
その静けささえも恐がって避けた母は、もったいないことをしたと思う。
死への恐怖を最後まで口にしなかった父を 王様は「雄雄しい」と今になって振り返る。
医者がいいと思うことを心底受け入れてその先の先にあるものをとやかく言わない、
そういう日々の積み重ねを意識が遠のくまで淡々と繰り返した。

父が死に対して淡々としていたから、律し続けていられたから、母は今になって
「あんなに早く死んでしまうとは思わなかった」と言う。
わたしは何度も「思っているほど長くない、後悔のないように」そう言ったのだけれども。
人間というものは、見ようとしなければ、聞こうとしなければ、目にも耳にも入らないもの。

一年を区切りに人寄せをする準備で、母は毎日、父の笑顔の写真を探している。
古いアルバムからはがした懐かしい写真を毎日わたしに届ける。
それをわたしは内心苦い思いで淡々と受け取る。
母の納得いくだけの数がたまったら、集った人々に見てもらえるような体裁のものにする。

ほんとうは父の写真を見たくない。
記念日反応には慌てず自然なこととして受け入れて、
ちゃんと泣いたり悲しんだり、実感がないことには実感が伴うまでなぞってみたり振り返ったり、
無理に蓋をしないで向き合えと聞く。
そうすると、弔いも回復も為され精神を傷めないのだとか。でもわたしは写真を見たくない。

病める時も愛していられますか。

母は父と連れ添って、おばちゃんにもお婆ちゃんにもならずに女の人のまま歳をとった。
病める時に愛せなかった母は今、写真の中に恋人を見ている。
病んでおらず健やかな笑顔の。



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大工仕事で塗りをせず白木のままにしたい時、
これは「とのこ」といって、木目を最後に綺麗に拭きあげるもの。
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by NOONE-sei | 2009-01-28 03:05


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