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55夜 踊って踊って

踊るってなんだろう。
たとえば路上で、黒人の子供の踊る姿がある。
それは身体がそう望んでいるのだと思う。

瞬間に生まれては消えていく、身体が生んだ『線』の羅列をそのまま消えさせずに、
ひとつずつ拾い上げて名づければ、動きはいずれ洗練された型になる。
はじまりは身体の自然な反応から。そうして生まれたものを逆にたどって分解し、
名づけた型を再び構築すれば振り付けという行為が生まれ、即興だった瞬間を再現できる。

「舞台ではどんなに息があがっても見せちゃいけない。肩で息をするのは袖にひっこんでから。」
「人でないものを踊るんだ。」
知人のダンサーがそう言っていた。
  ・・・・踊りってなんだろう。
つきつめるとすべては重心の移動だ。そしてスポーツとはちがう。
 踊りとして身体を動かしているわけではないのに、はっとする美しさが感じられるものもある。
拳法にも、ときにそれを感じることがある。
共通しているのは伸縮の美しさだ。
重心の移動だけでは美しくない。

クラシックを基礎にするもの、しないもの。
踊りの区分はさまざまある。
 歴史の古いクラシックバレエには、ひとつひとつの動きにフランス語で「パ」といわれる名がついている。
たとえばフォンデュというパ。チーズフォンデュの連想でいい。
熱めの風呂にはいる時、ちょっとお行儀わるく脚で湯をかきまぜたい、どうするか?
つま先を伸ばして甲に湯をあて、膝を支点に膝下の脚を一本の長いへらのようにゆっくり回す、、だ。
膝下の脚をねっとりと内から外に外に、引き伸ばしながら回す、その動きがフォンデュという名のパ。
 世界中のどこでどんな教師に習おうとパは共通で、概念も共通。
だから振りを伝え、共有することが可能になる。

日本の舞にはストイックさがある。
西洋の踊りの合理性に比べて、その踊りの伝え方にもちがいがある。
能や狂言にみられる親から子に伝える舞の稽古は、空気が張りつめている。
精神性と、シンプルに削(そ)ぎ落とした抽象化は凄まじい。

抽象化された踊りを理解し語ろうと思ったら、むずかしい。
身体表現を記号と捉えて感情を排した、コンテンポラリーダンスという区分が
クラシックから派生したことがある。
歴史が長いから、クラシックではあらゆる実験がなされた。けれども底にあるものは、
観ればわかる。踊りは目でわかってしまうもの。
どんな派生でも引き受ける懐の深さだからクラシックが普遍なんだということも。

表現者が陥りやすい迷路。
それは自分にしかわからない作品に仕上がってしまうこと。
観客が寄り添えない作品にはカタルシスに疑問が残る。
抽象化してもなおカタルシスがふりそそぐ踊りって、、、?
西洋の踊りは合理性が、日本の舞は物語が、どれほどの抽象化にも耐えられる支えだ。

ところで踊りの区分に、『舞踏』という言葉がある。
日本で生まれた踊りで、言葉が知られて半世紀にも満たない。
美術の世界でいう区分、『現代美術』とすこし聞こえが似ているかもしれない。

西洋人と日本人はもとより骨格がちがう。
背筋を伸ばし、骨盤を立てて馬に乗る民族のからだと、
腰を屈(かが)めて農耕をする民族のからだ。
肩も骨盤も膝も外側に開いている西洋人がバレエを踊るのは、自然なことだ。
日本人は手足の長さ等のプロポーション以前に、からだを開くことから学ばなければならない。
その、内に内にと向かうからだに自然な踊りが生まれた、それが舞踏だった。

舞踏も、踊りだから重心の移動。
緊張と弛緩はあるが、わたしたちの目が慣れている類の伸縮とはすこしちがう。
わたしは日本人でありながら、その動きを奇異と感じるのも正直な気持ち。

最近、舞踏の第一人者、(故)土方巽の写真集が復刊された。
瀧口修造が序文「鎌鼬、真空の巣へ」 を載せた1969年当時のままの復刻。
 昔、「ニッポン国古屋敷村」という映画上映を手伝ったことがある。
この映画が、土方巽の最後の出演作だったという。

踊りとしての『舞踏』を頭のなかでなぞってみた。
わたしには足がすくむ世界だ。
もしかすると舞踏をきちんと観て語れるのは、違う身体を持つからこそ客観視できる、
西洋なのかもしれない。


■『鎌鼬KAMAITACHI 細江英公写真集』
【著者】写真・細江英公、舞踏・土方巽、装丁・田中一光
【発行】青幻舎
by NOONE-sei | 2005-01-27 15:03 | 趣味の書庫話(→タグへ)


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